趣旨説明:Y2Kと〈エーテル〉の美学(日本映像学会「映像身体論」研究会 第5回)

難波阿丹

本記事は、2025年12月7日にオンラインで開催された日本映像学会「映像身体論」研究会の講演、北出栞「Y2Kと〈エーテル〉の美学」の模様を再構成したものです。同会は、映画理論・メディウム理論などをご専門とする難波阿丹さんが立ち上げた、日本映像学会内の研究会です。

難波さんによる趣旨説明、北出による講演、聴講者からの質疑応答の3パートに分けて公開しており、現在ご覧のページは難波さんによる趣旨説明です。

他2パートへのリンクはこちら:

「映像身体論」研究会の狙い

本日は、日本映像学会「映像身体論」研究会の第5回にお集まりいただき、ありがとうございます。今回は北出栞さんをお招きし、「Y2Kと〈エーテル〉の美学」というタイトルでご講演いただきます。

まずは私、難波から本研究会の趣旨を簡単にご説明し、続いて北出さんのご著書『「世界の終わり」を紡ぐあなたへ』について、論点整理と問題提起をさせていただければと思います。

本研究会発足の背景には、従来の映画研究に対する問題意識があります。

古典的な映画研究において中心となってきたのは、物語論(ナラトロジー)や作品論でした。具体的には物語の構成や、モンタージュ、クローズアップといった視覚的技術に焦点が当てられてきました。

しかし近年、映画研究において「映像身体論」と呼ばれる潮流が生まれています。代表的な論者としては、スティーブン・シャヴィロ、ローラ・U・マークス、ヴィヴィアン・ソブチャックといった名前が挙げられます。

従来の映画研究にはなかった「映画における快・不快の情動」や「インターフェイスの視触覚的な側面」といった観点について理解を深めることを目的として、この研究会を立ち上げました。過去の回では、「接触」的な行為が映像受容に持つ意味や、ショットにおける注意と散漫の分布、クィア理論と情動などのテーマについて、各回の講師の方々に講演をしていただきました。

こうした文脈の上で、本日は北出さんに〈セカイ系〉と呼ばれるジャンルの作品群についてお話しいただきます。それに先立ち、私がご著書を拝読して抽出した考察のポイントを三点提示したいと思います。

デジタルテクノロジーと「半透明性」

第一のポイントは、本書全体を貫く「半透明性」という概念です。

表紙に描かれたキャラクターのイラストにも象徴的ですが、北出さんはこの本で、東浩紀さんがライトノベルの文体を分析する際に用いた「半透明」という言葉――これは柄谷行人が近代文学の文体を「透明」と評したことに対比されるものです――を、作品分析の核に据えています。

この「半透明」を理解する上で北出さんが補助線にしているのが、ジェイ・デイヴィッド・ボルターとダイアン・グロマラの『メディアは透明になるべきか』という著作です。二人はそこで「あらゆるデジタル作品は透明性と反映性の間で揺れている」と指摘しているのですが、北出さんは、この透明/反映という二項対立の外側にある立ち位置として「半透明」を提示し、〈セカイ系〉とはそうした「半透明な、曖昧な領域を肯定する思想である」と論じています。

これは、人とコンピューター、あるいは人とモノとの関係性が溶け合っていく事態とも連動しています。『最終兵器彼女』の、機械や武器と人間の身体が一体化し、境界が曖昧になる描写は象徴的です。

『イリヤの空、UFOの夏』における人称の操作や、『ほしのこえ』の編集によって生まれる構造なども含め、〈セカイ系〉作品には鑑賞者を曖昧で「半透明」な立ち位置へと誘導する性質があります。逆に言えば、そうした「半透明」な感覚を具現化したものが〈セカイ系〉作品である、と整理できます。

編集技法としての「レイヤー操作」

第二のポイントは、映像編集における「レイヤー」の概念です。

従来の映画研究では、フィルムをショットという単位で切って繋ぐモンタージュ論に基づいた分析が主流でした。しかし、北出さんが扱う映像作品には、古典的なモンタージュ論だけでは捉えきれない側面があります。

著書の中で北出さんは、ゲルハルト・リヒターの作品を引き合いに出し、鑑賞者がガラスや絵画の表面の中に「半透明」に映り込み、レイヤーの一部として作品に描き込まれていく事態について触れています。

スマートフォンのカメラで美術作品を撮影し、触覚的で直接的なイメージとして容易に流通させることが常態化し、鑑賞そのものよりもSNSでの「いいね」獲得が目的化している現代を予見するように、リヒターは、作品を撮影する鑑賞者の姿が必ず作品の中に「もうひとつのレイヤー」として描き込まれるような作品を作っています。これを、鑑賞経験をシェア的なものから固有なものへと再び引き戻そうとする批評的な試みであると北出さんは評価しています。

そして、こうした「レイヤー構造」は〈セカイ系〉の編集における特徴でもあります。北出さんは、大塚英志さんが新海誠の『ほしのこえ』について論じた「レイヤーの美学」というテキストを引用しています。

新海は彼自身、キャラクター、感覚の意識をレイヤー化して行くのだ。主人公、あるいは観客の主観が捉える空間をまずレイヤーとして構成する。風景はただの背景ではなく、内面の投影であり、意識の外化の手法である。〔…〕そして風景を意識の流れとしてモンタージュしていく。つまり、繋いで行く。そこに、少年と少女の言葉や音がレイヤーとしてモンタージュされていく。

ここで大塚さんによって語られるモンタージュとは、従来の「切断と結合」ではなく、言葉や音、主観や意識が「終わりなく重ね合わされ、レイヤー化されていく」という操作です。古典的な映画分析とは異なる、このレイヤー的な構成をどう捉えるかが重要になります。

現代における「制作者」と「鑑賞者」の立ち位置

第三のポイントは、「制作者」と「鑑賞者」の関係性の変化です。

古典的な映画において、制作者と鑑賞者は分離していました。しかし現代では、鑑賞者が制作者になり、制作者が鑑賞者になるという立場の入れ替わりが常態化しています。

〈セカイ系〉作品の多くは、明確な「終わり」を持たず、不鮮明な形で物語が進む印象を与えます。これは、登場人物や観客の「主体性」の問題に関わっています。そこで描かれる主体は、自律的に問題を解決する近代的(ビルドゥングス・ロマン的)な主体ではなく、「見えるもの」と「見えないもの」を二重に処理する、ポストモダン的な主体と整理されます。

東浩紀さんは「セカイ系」について「想像界(親密圏の幻想)と現実界(リアルなもの)が短絡し、象徴界(社会の約束事)の描写を欠く」と述べました。北出さんはこれを、「想像界と象徴界を区別することからなる「大人の世界」のシステムを、「子供の世界」である現実界が壊してしまう」事態として読み解きます。

この境界が曖昧な世界を支えているのが、TikTokのような、制作と流通が一体化したプラットフォームです。そこではオリジナルを欠いたイメージ(シミュラークル)が循環し、「切なさ」や「エモさ」といった情動が浮遊しています。北出さんは、そうした情動を受け止める形象として「天使」が召喚されているのではないかと指摘しています。

また、デジタル時代の作り手は、レフ・マノヴィッチが言うような「オペレーター」として立ち上がります。オペレーターはたとえば、ソフトウェアとしてのボーカロイドに主体性の半分を委ねながら、コピー&ペーストや合成といった操作を駆使してデータを扱います。

従来の映画研究が「監督(作家)」の名において作品を語ってきたのに対し、〈セカイ系〉以降のデジタル作品においては、ソフトウェアと協働するオペレーターの存在によって、単一の「作家性」を想定することが難しくなっているのです。

まとめと問題提起

最後に、私自身の関心である「触覚」と結びつけて、三つの問題提起をして結びとします。

一点目は、「接触」と「親密」性の表現と「切なさ」との関係です。

マーシャル・マクルーハンは『メディア論』の中で「テレビジョンは触覚的だ」と述べました。これは映画と比較してテレビが「近視」で観るメディアであり、「モノが近く見える」ことを彼が「触覚的」と呼んだからです。

しかし、これはやはり視覚の話であり、本当に「触覚的」と言うのが適当なのか、私は疑問を持っています。マクルーハンの言う触覚的なメディア……つまり近視のメディアとは、実は「半透明のメディア」なのではないでしょうか。

対象に極限まで近づいていくと、そばにいるように思われるけれど、近すぎるがゆえに把握できなくもなる。「近いけれども遠い」というアンビバレントな経験が生じるわけで、ここから北出さんの言う「切なさ」も生じるのではないかと考えます。

ですので、〈セカイ系〉における接触や親密さの表現を単に「触覚的」と言ってしまうことには留保をつけたい。むしろ、超視聴覚的な平面において営まれる、「すごく近いんだけれども、遠い」という「切なさ」の表現として捉えられるのではないかと思っています。

二点目は、観客の立ち位置についてです。

先ほど、〈セカイ系〉作品の編集において「レイヤー構造」が使われているというお話をしましたが、そこでは観客もまたレイヤー構造の一部として作品に組み込まれているのではないか、という論点が考えられます。

鑑賞者が作品の外側にいるのではなく、レイヤーのひとつとして内包されているような事態について、ぜひご意見を伺いたいと思います。

三点目は、現代的な作品の分析手法についてです。

映画研究では、「ひとつの終わりのある作品」を対象化して分析するのが従来型のスタイルでした。しかし、北出さんが扱われているような〈セカイ系〉の作品群は、むしろMVやショートクリップのような「作品未満」の表現であり、大文字の作品=世界に対するアンチテーゼ的な表現活動=セカイがなされているのではないかと考えられます。

「世界」未満の、カタカナの「セカイ」系。こうした現代的で、ある種断片的な作品について、私たちはどのように分析していけばいいのでしょうか。

以上の論点を踏まえつつ、これからのご講演を賜れればと思います。それでは北出さん、よろしくお願いいたします。