モーショングラフィックスからプログラミングへ――映像作家・橋本麦さんとの対話(後編)

北出栞 + 橋本麦

橋本麦さんとの対話の後編をお送りする(前編はこちら)。拙著『「世界の終わり」を紡ぐあなたへ』も読んでくださったとのことで、こちらが批評という分野について質問を受けるところから始まった。なんでも最近まで長らく「人文書アレルギー」があったとのことで、それは世界を「構成論的」に見るか「分析論的」に見るかの違いがあったとして、後者に立つ人文系の学者や批評家が「構成論的」な体系であるところの数理科学やプログラミングの用語を使っているのを見ると引っかかりを覚えることが多いからとのことだった。

こちらとしてはそもそも「構成論的」と「分析論的」の違いがそもそもよくわからなかったので、そのことも率直にお訊ねしながら、よりお互いの立場の違いを明確にしつつ、すり合わせるような形で進行していった。「AI絵師」や「シンガーソングライター」といった言葉に対するスタンスの違いなど、好対照で面白い内容になったと思う。ぜひお楽しみいただければ幸いだ。

データベース消費、生成AI、シンガーソングライター

橋本麦

自分からも聞いていいですか。僕は割と最近になって東浩紀さんの『動物化するポストモダン』をちゃんと読んだんですけど、食べ物を食べてるんじゃなくて、そこに備わっている類型化された記号を消費してるんだみたいな話って、ボードリヤールとか、それこそ『らーめん再遊記』のラーメンハゲも同じことを言っているわけじゃないですか。味そのものでなく、「こういうダシが取られていて……」という情報を味わってるんだって。それをオタク文化というドメインスペシフィックな領域において展開した本というのが、僕の中でのあの本の理解なんですけど。

北出

社会学の新書を偽装するというアプローチで戦略的に書かれた本なので、基本的にはそれで合ってますよ。ただその上で東さんがなんでオタク文化、視覚文化に注目したかといったら、やっぱりあの人は哲学者で、哲学者というのは人間の主体性について跡付ける仕事をする人だと僕は理解してるんですけど、主体というのはやっぱり近代以降「見る」というモデルに規定されていて、それがある時代までは映画というものの比喩で、スクリーンに映っているものと後ろにある深層、見えるものと見えないもの(神とかイデアとか)の秩序によって説明されていたと。

で、東さんが言うにはポストモダンではスクリーンモデルからインターフェースモデルになったと。マウスを動かしてGUIをクリックするというインターフェースを通じて、オタク向けのゲームはインタラクティブにキャラクターの表情が変わったりして、オタクたちはその微細な差異に萌えている、つまり本物性みたいなものを見出している。スクリーンに映った、現実のどこかから撮ってきたものを通じて世界を理解するのではなく、表面に映っている情報がすべてで、その順列組み合わせに本物性を感じてしまえるということが、近代(モダン)からポストモダンへの主体性の変化を表しているんだって議論をしているんですよね。

なので、オタク文化を特権的なものとして持ち上げたかったというよりは、視覚と主体性の関係を問い直したいというモチベーションが先にあったんだと思います。それに対して、僕は主体性をソフトウェアに半分預けることによって生まれる創造性みたいなことを考えたいから、根本からモチベーションが違うんだなと最近改めて思ったんですけど。

橋本麦

なるほど。ちなみに確認なんですが、あくまで哲学の営為って主体や主観というものについて逡巡することであって、それを中心的な存在として持ち上げていくことではないですよね。

北出

そうですね。それをベースに何かを組み立てていくという。そういう意味では僕も主体について逡巡はしてますね。

橋本麦

オタク文化とデータベース消費みたいな話でいうと、AI絵師の話がありますよね。たとえばソシャゲ絵とか判子絵みたいな言葉があったりするように、現状の生成AIモデルが内包する潜在空間の中で表現できてしまうほどに、萌え系の絵のスタイルは収斂してしまっているわけじゃないですか。人間の表現がすごく小さいところに集中して偏在していることで、その部分だけを集中的に学習させることでスタイルを模倣できてしまうというのがあって。表現の探索空間全体の中でいうと1割にも満たないような領域に、世界の表現の9割が集中しちゃってる。AI絵師の是非以前に、僕はその偏り自体が問題だと思ってて。

その意味で「シンガーソングライター」ってすごくいい言葉だと思うんです。考えて、歌って、演奏するということを全部ひとりでやる。「作詞」と「作曲」と「パフォーマンス」とがすべて分業されていた、従来の音楽業界に対するカウンターなわけじゃないですか。

でも、一方でフレットがあってコード進行があって、そこに対して自分が声を当てて弾き語りするというフォーマットの中で思い付く音楽にも限りがある。批評の機能って、そこで電子音楽というものがあるんだよとか、無調音楽ってのがあるんだよって知らせることにあるんじゃないかと思うんです。制度化された音楽とか表現に対して、「じゃなさ」の辺縁というか裾野の広さを、相対化して見せるために批評というものがうまく機能してくれるときもあるなと。

北出

シンガーソングライターという言葉に関しては、個人的には微妙な感覚で。SNSで弾き語りの動画がバズったりするのを見ると、やっぱりその人の身体性に紐づいたスタイルだなって思ってしまう。それよりはボカロPのほうが、作者自身の身体性は後景に退いていて、キャラクターに歌わせることによって、自分のアイデンティティを攪乱させるような形で音楽そのものを流通させることができるという点で面白いと思うんです。

でも分業体制へのカウンターとしてのシンガーソングライターって話を聞くと、その延長、シンガーソングライターという概念のアップデート版としてボカロPという概念があると捉えてもいいのかもなと思いました。

「計画と実装の分離」批判

橋本麦

自分のシンガーソングライターって言葉いいじゃんって気持ちと、個人で映像を作ることいいじゃんって気持ちは同じで。その逆の話で、椎名林檎さんややくしまるえつこさんが、なぜかある時期から自分の肩書きを「音楽家」に変えてるのが気になるんですよね。僕が音楽家って聞いて思い出すのはやっぱりバッハとかとドビュッシーとか、要はクラシックの作曲家なんですけど、今のミュージシャンには作詞からどうやって演奏するかまで、全体を見ようと思えば見れるすごくいい状況があって、それを手放して、ただクラシックでそれらしい響きだからって理由で「音楽家」って肩書きを選んでいるんだとしたら、すごい時代錯誤的だなと。

北出

本人たちとしては「音楽家」って言葉自体が、すでに今おっしゃったようなものになってるって意識で言ってる気もしますけどね。坂本龍一さんがまさに先駆的な存在だったと思いますけど、彼はアカデミックなところから出てきて、YMOなどを通じて自分をキャラ化していったという、逆の方向をたどったわけで。それを所与の条件として、ある種のねじれを自覚しつつ「音楽家」って名乗ってるんじゃないか。

橋本麦

やくしまるえつこさんは僕の大学のサークルの先輩らしいんですけど、どちらかというと在野の音楽活動からキャリアを始めて、今はアルス・エレクトロニカに出展してメディアアートの文脈で評価されたりしている。アカデミアや美術のような領域に漸近していく、その過程で肩書きを重たくしたようにどうしても感じてしまって。

やくしまるえつこ『わたしは人類』アルスエレクトロニカ授賞式 / Etsuko Yakushimaru – “I’m Humanity” (Prix Ars Electronica Gala 2017)

やっぱり自分が嫌なのは、世の中でプランニング(計画)とインプリメンテメンテーション(実装)が分離してしまっていることなんです。それは作曲と演奏が分離していることもそうだし、日本のソフトウェア産業でSIerだとかって言われている世界も、プログラミング言語に触らないことがむしろ上流工程たるステータスなんですよね。クライアントからヒアリングしながら、どういう風にプログラムが動いてるかというのを、人様にわかるスプレッドシートやポンチ絵方式で書き起こせるのが偉いみたいな。そしてその仕様をもとにプログラミング言語を用いて実装するのは、下流の存在であるプログラマーであると。

それをアホだろってずっと言ってるのが、『ハッカーと画家』のポール・グレアムなんですよね。プログラミングは計画を実装するためにあるんじゃなくて、それそのものを使って考えるためにあるんだと。プログラムを書くプロセスの中で自分がそもそも何を作りたかったのかっていうことを、対話的に、手を動かしながら思考する。自分の思考と並走してくれるためのツールとしてプログラミング言語というものがあるんだと。僕もそれにはすごく共感するんですよね。考えることと作ることの分離は、スケールもするから正義でもあるんだけど、それによって失われてしまうものが惜しくてたまらないみたいな。

「ワープロ文学」の可能性

北出

自分は文章を書くということについて、今プログラミングについておっしゃられたような話をどう取り入れられるのかということを考えますね。千葉雅也さんはそれに近いことができているから、唯一無二の書き手なんだと思うんです。WorkFlowyやScrivenerといったソフトウェアを使った自分の文章の書き方も公開してますし、Twitterというのも140字で言葉を分節化していくということによって自分の思考が規定される、そういう外部ツールとして使ってるということを言っていて。

彼はドゥルーズを専門としていて、そこから引き出せる「切断」という主題について哲学的な展開もしていて、最近は小説も書いていて。すべての主題が「切断」という概念と、思考を外部化する、組み替えるという実践に関わっていて、手法そのものについての本も出してるし、哲学的な解説書も出してるし、フィクションの実践として小説も書いてるしみたいな感じなんですよね。

橋本麦

小説家でも、InDesignで書くみたいな人がいましたよね。

橋本麦

そうそう。伝えられる内容物と伝えるための媒体はずっと分離して語られてきたんだけど、本当は切っても切り離せない関係なんだというのをおそらく実践しようとして、組版からやってるわけじゃないですか。書いた文章がどういうタイミングで改ページになって次のページに回り込むとか、何ポイントでそれが読まれるのかとか。

そもそもDXが世界で一番最初に起きた分野がワードプロセッシングですよね。タイプライターの時代にはできなかったデリートとか、カット&ペーストといった入力方式が、新しい「ワープロ文学」とでも言うべきものを生み出してるのかもしれない。それがわかりやすく起きたのがケータイ小説で。

北出

そうですね。横書きで、ガラケーの画面に一行で収まる短いセンテンスが改行を多様して断片的に連なっていくという。

橋本麦

村上春樹が文章を書くときに、一回英語で書いてそれを和訳すると、一個一個の文章が短くなってリズムがよくなるんだって話をしてて。それは自分が自分に対して課す、意識的に作り上げる制約条件ですけど、そういうのとは違う、自分の思考をアフォードするためにワードプロセッサそのものを組み換えるみたいなことが、文章においてもできるといいですよね。

北出

今の話でいうと、過去のブログの中で「プログラミングによるジェネラティブで計画的なアプローチと、《ソフト》の直感的なGUI環境下で、チマチマと行き当たりばったりにつくるアプローチ。その狭間で、ギリギリのところでチマチマを選んだのが僕であり、結果こうしてAdobe製品と日々制作に向き合っているわけです。」と書かれていて、結局Adobeも使われてるんだなと。

橋本麦

映像編集のソフトウェアは、野良の人間が寄ってたかってバザール方式で構築するには複雑すぎるんですよね。オープンソースで自然とAfter Effectsみたいなツールができるかというとそうじゃなくて、株式会社とかそういう秩序だった伽藍方式で、しっかりとお金を取って開発するって形でしか最初のたたき台って作れないんじゃないかって薄々感じていて。

そのいい例がBlenderです。Blenderって元々はクローズドで有料ソフトとして販売されていたんですけど、開発会社が倒産しちゃって、債権回収会社が持っていってしまった知財を、元社長のトン・ローゼンダールがこれじゃアカンって、今でいうクラウドファンディングをして買い戻したものをオープンソース化したという助走期間があるんです。

なので、結局僕にとっても、今から自分の身体に合わせたツールをDIYするのは現実的じゃないから、だとしたら既製品を騙しだまし転用するというのが、ひとまずは実践可能な最善手なのかなと。それをもう少しラディカルにやろうと思って、プログラミング言語からソフトウェアを作るということを試みてはいるんですけど。何年かかるかわからないし、それができるのを待ってたら自分の映像作家としての旬が過ぎてしまうんで、とりあえずAdobeともお付き合いさせていただくみたいな感じで。

北出

なるほど。

橋本麦

あと、あそこで語っていたのは、アルゴリズミックな思考と、ストロークを一個一個置いていくようなマニュアルな思考の乖離についてで。

どうしたらエレガントに構造を抽象化できるかを考えるより、一個でもたくさんストロークを置いたほうが絵としての説得力が上がる瞬間というのも実際のところあるわけです。1000回同じ作業を繰り返したらその作業は終わるんだけど、それをプログラミングによってより効率化できるかも知れない。だけど効率化それ自体にもコストがかかるわけだから、1000回ストロークを置くこと以上に時間がかかってしまうかもしれない。

レフ・マノヴィッチが言うところのニューメディアというものが登場して以降、常にそういうトレードオフは発生していて、抽象化したい、自動化したいという欲求を一旦殺して「そういうものだから」って暗示をかけながら作業するみたいなことって、あらゆる分野で起きていることな気がして。

北出

多くの道具が「ハードウェア」ではなく「ソフトウェア」になったからこその悩みということですね。さっきのワープロ文学の話もそうですけど、普遍的な話だなと思います。

世界を「構成論的」に理解する

北出

今日お話してくださった内容を、ぜひ書籍のようなまとまった形で読みたいなと思いました。

橋本麦

でもどう書くかというのは難しいんですよね。久保田晃弘さんがあるデザイン系のポッドキャストに出演したとき、ホストの人がÉKRITSに久保田さんが書いたテキストを参照して、「ちょっと数式とかわかんなかったんですけど」みたいなことを言っていて。久保田さんってそういうのを理解した上で膝を折ってわかりやすく解説するんじゃなくて、技術に嘘はつけないから、自分が引用する数理的概念に関してはちゃんとその実装を文章中に割り込ませるという誠実さを持っていらっしゃるじゃないですか。

世界を構成論的に理解する鍵はソフトウェアやプログラムそのものの中にあるわけだから、概念的な部分だけを自然言語によって記述しては思いが伝わらないという久保田さんの態度に、個人的には共感するんです。でも記号みたいなものが出てきた瞬間に、これはnot for meだなって思ってしまう人はどうしてもいる。

北出

「構成論的」とはどういった意味なのでしょうか。

橋本麦

世界の中に実際に自分の身を置いてみて、肌で感じることで理解しようとするスタンス……ですかね。それに対置されるものとして分析論的なアプローチというものがあって、これはもっとデータとか客観的な判断材料に基づいて俯瞰して見ようという考え方です。どっちがいい悪いという話ではなく、そもそも人文系やアカデミア、あるいは「現場で手を動かしてる」人間にも、それぞれに「分析的」な側面と「構成論」的な側面とがあって相補的なものだと思うんですけど、僕は映像あるいはテクノロジーアートという狭い領域においては、今のところ構成論的なアプローチが足りてないって思っていて。

北出

なるほど。で、構成論的に物事を捉えられるようになるためには、数学やプログラミングの考え方を身につける必要があると。

橋本麦

少なくとも自分の経験上はそうだったので。誰かが言ってたと思うんですけど、人間的なものの中にある構造を追求する社会科学と、人間の介在しない物理空間について記述する自然科学というのがあって、三つ目にイデアの世界を探求する数理科学というものがあると。理系と文系みたいな言葉があるように、だいたい自然科学と社会科学が対置されるんだけど、実はその裏側には常に数理科学の後ろ盾がある。ことさら20世紀以降、構造主義以降はそうなんだみたいな。

北出

レヴィ=ストロースが未開部族の親族構造を読み解くのに数学を応用したって話ですよね。

橋本麦

そうです。そこで使われたのが群論という離散数学の一分野なんですけど、数学嫌いとか理系コンプレックスの原因って、中高までの数学において、離散数学が全然教えられないことが大きいと思うんですよ。微積分の計算問題なんかより、群論とか集合論とかのほうが重要だと思う。実際僕もいわゆる「理系」の高等教育を受けたわけではないし、数学は決して得意じゃなかったんだけど、そういう離散数学やプログラミングを通して得たものは、インスピレーションになり続けている。

とにかく数学やプログラミングって身体的なものなんだよということは、これからも声を大にして言っていきたいですね。