この手のなかに溶けゆく世界——新海誠とAppleにおける流体のマテリアリズム
布施琳太郎
このテクストは2020年の末ごろに執筆し、2021年に刊行された雑誌『ferne』に掲載された原稿の加筆修正版である。内容としては、アニメーション作家の新海誠の映像表現を、Apple自身による広告映像やiPhoneの表象と重ね合わせながら読み解くことで、そこに共通するマテリアリズムを見出すものだった。目的はキャラクターやデジタルデバイスが流体状の質感や形態として現れることが、何を意味するのかを考えることである。
しかし、なぜ加筆修正を施した上で公開したいと考えたのか。それは日本時間にして2025年6月10日の午前2時に開催された、Appleによる開発者向けカンファレンス「WWDC 2025」の基調講演の内容が、インターフェースの今後にとって破壊的な側面を持つものだと感じたからである。
講演でAppleはユーザー・インターフェースの新たなあり方として「Liquid Glass」を提示した。それはかつての自分が「流体のマテリアリズム」とまとめたアイデアに対して、より具体的なイメージを与えるものである。そこで、Liquid Glassについて概観する内容を冒頭に加筆した。
また本文中の記述のあいまいさについても最小限の修正を行った。荒削りなところもある原稿だが、もしも引用してくださる方がいれば、今後は最新版として本記事を参照していただけると幸いである。
マテリアルデザインの展開
まず歴史的な展開から確認しておくと、Liquid Glassとは、2013年のiOS7、あるいは2014年のOS X Yosemite以来の大規模なデザインのアップデートである。
そもそもiOS7やOS X Yosemiteのときにどのような方針転換が取られたのかと言えば、当時のデザイン責任者だったジョニー・アイブの主導で「フラットデザイン」が採用されたのだった。フラットデザインの特徴自体は、Apple製品に限ったものではまったくないが、最も極端なものだとグラデーションやドロップシャドウ、現実の質感を再現したアイコンなどを排除して簡略化した色面的な構成によってつくられる。視認性を高める効果があると言われる一方で、それがボタンなのかそうでないのか? などを瞬時に理解することが難しいといった批判もなされてきた。
Appleにとってフラットデザインの採用は当時、今回のものに勝るとも劣らない大きな方針転換だった。なぜならスコット・フォーストールが率いた初代iPhoneからiOS6までのインターフェース・デザインは、スキューモーフィズムと呼ばれる現実の物質感を再現するようなものだったのだ。
しかし、フォーストールによる革新の源流は、初代iPhone発売の2007年からさらに時を遡ったところにある。
2001年3月24日。Mac OS Xシリーズとしては初の公式リリースである「バージョン10.0」をAppleは発売した。安定性の向上だけでなく、QuickTimeやDockの搭載など、機能面でのアップデートも無視することはできない。しかしここで注目したいのは「Aqua」という新たなデザインシステムである。たとえばチェックボックスのなかに☑️を入れると、そこに液体がたまったかのような水色の色面が注ぎ込まれる。
今回の発表で——iOS7以降のデザインを率いてきたアイブがAppleを離れてから3年が経って——Liquid Glassが採用されることを「Aquaの再来」として紹介するメディアも数多くある。しかしAquaは、あくまで現実世界の物質感に近い「水っぽさ」を静的に再現するだけに過ぎなかった。これに対してプルプルと動きながらボタンやフォントそのものが縦横の比率を変えていくLiquid Glassについて、Apple自身による開発者向けの動画では次のように語られている。
[Liquid Glassは]MacOS XのAqua、iOS 7のリアルタイムのぼかしからiPhoneXの滑らかな反応、Dynamic Islandの柔軟性、visionOSのイマーシブなインターフェースまでに至る進化を基盤としています。これらの経験を通じてAppleは、物理世界の物体を単に再現するだけのアプローチから一歩進んで、動的に光を屈折させ成形するデジタルなメタマテリアル「Liquid Glass」を生み出しました。(和訳は筆者による)
ここでLiquid Glassの説明のために「メタマテリアル」という言葉が選ばれていることが興味深い。そもそもコンピュータの画面内に表示された物体それ自体——ゴミ箱のアイコンであれトメハネのあるフォントであれ——は、現実のものではなく、あくまで「現実的なもの」の再現だった。Liquid Glassは現実の再現ではないが、たんに視覚的にわかりやすく情報を伝えるフラットデザインのような色面構成でもなく、私たち人間とコンピュータの「あいだ」にしか存在しない。それをメタマテリアルと呼ぶしかないのは、レンズや水のような光の屈折によってのみ視認できる透明性を、現実には存在しない物質感で実現するからである。ライトモードやダークモード、あるいは背後にある画像がなんであるのかに関わらず「見える」のがLiquid Glassというメタマテリアルなのだ。
また、現在のAppleは各製品のなかに人工知能を組み込むことに熱心である。これは予想だが、Liquid Glassとは、人間とコンピュータの「あいだ」でなされるやり取りを可視化するインターフェースであると同時に、人工知能という知性と人間の「あいだ」で交わされるやり取りを表象するものであるのかもしれない。
Liquid Glassについてはまた別の機会にあらためて論じたいが、少なくとも、どこまで行っても印刷物をつくる手法の延長にあった、それまでのインターフェース・デザインのパラダイムを大きく変えるものであることは間違いない。そして今回の発表を踏まえたとき、以下につづく新海誠の創作手法とAppleのデザイン哲学を重ね合わせた制作論のアクチュアリティも、大きく変化するように思える。そこにはゲームクリエイターやアニメーション作家、そしてメディアアート的な想像力を抱いて制作する現代美術作家にとってだけでなく、絵画や彫刻といった伝統的な手法で制作活動を行う作家たちにとっても、あらためて「マテリアルとはなにか」を問い直し、自らの制作を展開するためのヒントがつまっているはずだ。
僕と、セカイ系とデジタルガジェット
いまはもう、あのときの衝撃を思い出すことができない。たしかなことは人間がつくったものにはじめて感動したという事実だけである。この胸の鼓動を忘れたくなくて、親から買い与えられた勉強机に10歳の僕が彫った文字列はいまだに確認することができる。「雲のむこう、約束の場所」。2004年に公開された新海誠監督作品のタイトルだ。グレーの天板がカッターナイフで削り取られることで白く浮き上がり、そう書かれている。大学生になって上京するまで、この机で勉強をして、ゲームで遊び、絵を描いて、インターネットをした。僕の青春は、つねに新海誠と並走していた。
だから随分と後になってから「セカイ系」という言葉を知った。そして、それは批評との出会いでもあった。バラバラの作品や事象のあいだに、つながりを見出して論じる営み。ひとつの言葉を知ることで、芋づる式にたくさんの言葉を知る。「新世紀エヴァンゲリオン」「大きな物語/小さな物語」「最終兵器彼女」「世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド」「serial experiments lain」「データベース消費」……浴びるように映像を見て、本を読み、描かれた物語に傾倒していく。こうして僕の扱う主語は自然と大きくなっていき「つまり世界っていうのは、ね」などと話すようになった。
それと同時に、10代のころの僕が関心を持ったのはデジタルガジェットと呼ばれる携帯型の電子機器だった。インターネットを通じて世界中のイノベーションに目を輝かせながら、家電量販店を巡ってひとつひとつの製品が持つ機能や手触りに胸を踊らせた。日本ではじめて発売されたAndroidスマートフォン「HT-03A」を両親にねだって買ってもらい、法整備が追いつかないことで無法地帯だった動画サイトで様々な映像を見た。
あるいはソニーの携帯ゲーム機「PSP(Play Station Portable)」を改造して、様々なインディーゲームやレトロゲームで遊んだ。20年近く前のことだが、こうして中学生の僕は、インターネットに触れたりデジタルガジェットを用いることの万能感と、セカイ系というジャンルに埋没することで自らの価値観を形成していったのだ。
デジタルガジェットとセカイ系の関わりを解きほぐすこと。それは最終的にアーティストになるひとりの若者の人生の物語に過ぎないのかもしれない。だがその記述こそが、ひとつの変化する時代の雪解け水でもあると信じて、言葉を尽くしたいと思う。
新海誠と携帯電話
新海誠はセカイ系を代表する作家として参照されてきた。そんな彼の映像表現のなかでデジタルガジェットは重要な役割を担っている。彼の実質的なデビュー作『ほしのこえ』(2002)の中心には、折りたたみ式の携帯電話(ガラケー)があった。本作は地上と宇宙に離れて暮らすことになってしまったミカコとノボルが、携帯電話のメール機能を使ってコミュニケーションを行う様子を描いたアニメーション映画だ。しかしミカコが太陽系から遠く離れていくにつれ、メールの送受信に多大な時間を要するようになっていく。「私たちは、たぶん、宇宙と地上にひきさかれる恋人の、最初の世代だ」。手のひらの上の携帯電話がどこまでも遠くとつながっていそうで、しかし無機質なプラスチックによって、逆接的に、その距離が露わになってしまうことの切なさが表現された映画である。
携帯電話、そしてメール機能への関心はその後の作品にも引き継がれた。たとえば『秒速5センチメートル』(2007)において、主人公に送られてくるメールの文面……「あなたのことは今でも好きです。/でも私たちはきっと/1000回もメールをやりとりして、/たぶん心は1センチくらいしか近づけませんでした」。それは『ほしのこえ』で提示された新たな世代——デジタルガジェット越しに恋心を育む世代——の孤独を反復する。物理的な接触が不可能な距離(たとえば宇宙と地球)に二者が引き裂かれたままで、恋し、恋されることの可能性と不可能性を。
しかし彼の作品のなかのデジタルガジェットは、スマートフォンとソーシャルメディアが台頭して以降、物語上の効果を発揮していないように思える。例えば2016年公開の『君の名は。』においても、携帯電話(スマートフォン)は物語のなかで重要な役割を担ったが、それは『ほしのこえ』とはまったく異なる存在としてだった。本作で時空を超えて心と身体が入れ替わってしまう立花瀧と宮水三葉は、それぞれの日々をスマートフォンのメモ帳機能を用いて書き残すことで報告し合う。ここでもスマートフォンが、これまでの作品における携帯電話と同じように、二人の出会いとすれ違いによる関係性の蝶番として用いられている。
しかし、そもそもスマートフォンや携帯電話は遠距離でのコミュニケーションを目的とした道具であり、常にネットワークと接続されたものだ。こうした携帯電話の特性を利用することで『ほしのこえ』の物語は展開したが、『君の名は。』ではまるで二人の端末がオフラインであるかのように扱われる。人格の入れ替わりによって生活上の困難を抱えているのなら、手元にあるスマートフォンを使って電話なりメールなりすれば良いとオーディエンスは考えるだろう。しかし劇中のスマートフォンは書き置きのためのメディアとしてしか使用されない。本作において、スマートフォンの機能は明らかに意図的に縮減されているのである。
この縮減を利用して、新海誠が、ソーシャルメディアやスマートフォンといった新しいテクノロジーに適応できず、時代遅れな価値観にとどまっているのだと批判することもできるだろう。しかし、それはあまりに乱暴だ。なぜなら遠距離通信の機能をデジタルガジェットから排除することは、スマートフォンに対する新海の理解不足が原因とは思えないからである。彼の初期作にとってもっとも重要な機能であった遠距離通信の削除は、意図的なものとして捉えられるべきだ。その意味を明らかにするために、まずは初期の新海誠作品における特異な語りの同時代性について考えてみたい。
独り言の時代——ケータイ小説とガラケー
新海の初期作品(普通の学生がスマートフォンを使用するようになる、2007年以前の作品)である『ほしのこえ』や『秒速5センチメートル』における発話は、大きく二種類に分別することができるだろう。まずひとつはキャラクター同士の会話だが、これに対して映像を進行する独り言のようなナラティヴがある。彼の映画では誰かに届かせることを意識して発声しているとは思えない囁き、つまり独り言が全体を覆っているのだ。会話と独り言を行き来することで展開していく物語のなかで、宇宙の彼方にいる恋人が、手のひらの上のスクリーンに現れる。
しかし、独り言は初期の新海誠の作品にのみ固有の作家性ではなく、同時代的な発話の特徴だった。
ゼロ年代の日本のインターネットに現れた様々なサービスにおいて、当時の若者たちは特定の誰かへのメッセージではない言葉をつむぎはじめた。それらはガラケーを用いて発される言葉である。例えば2004年に開始されたウェブサイト作成サービスの「前略プロフィール(前略プロフ)」や各種「ホームページ(ホムペ)」、そしてそれらと併用されることの多かった「リアルタイム(リアル)」はゼロ年代の特異な言葉遣いが露わになる場所だ[1]。
リアルとは「今日あったこと」や「今感じていること」を短文で書く簡易ブログである。しかし近年のSNSと異なり、他のユーザーをフォローして一元的に管理することはできない。そのため互いのページをガラケーのなかに「ブックマーク(ブクマ)」して、それぞれのリアルに直接アクセスする。ブクマされた「リアル」はインターネット上でコミュニケーションをするためではなく、学校などの友人が心のうちに抱えた葛藤や喜びを共有するためのプラットフォームだった。つながっているのに、バラバラな「リアル」。そこには情景や固有名詞が欠けたまま、感情や出来事を回想する独り言が羅列された。こうして書くことと話すことの距離が失われ、独り言が顔を出す。
この特徴はゼロ年代に流行したケータイ小説においても顕著だ[2]。
あの幸せだった日々は嘘じゃない、そう信じていたから。
でも、もう本当にダメなんだね。
もう本当に本当に二人はダメになっちゃったんだね。
――美嘉『恋空』(2006)
「実話をもとに作成しています」[3]とされる『恋空』は、そうであるからこそ、執筆に要した時間と思い出のあいだとの距離によって、回想的な語りが散りばめられている。それは「リアル」に記されたような、独り言としてのモノローグだ。筆者と主人公の重なり合った声は、テキストを独り言に変質させる。多くのケータイ小説の主人公はレイプや恋人の病死、事故死といった不幸に見舞われるが、物語内の人物=筆者は不幸を社会に訴えかけるのではなく、たんに不幸を囁くのだ。その不幸は、告発ではなく、共感の装置としてのみ利用されるのである。
『ほしのこえ』のオリジナル版ではノボルの声優を新海誠が自ら担当したが、その効果はケータイ小説における独り言と等しいものとして捉えることができるだろう。つまり誰に向けられたわけでもない独り言を、監督自ら口にすること。それは虚実の境を超えて、宇宙規模の戦争を介して、恋するあなたと引き裂かれる「ボク」のリアルを、その不幸を、共感の装置として利用することを可能にする。
[1]「『ホムペ』『プロフ』『リアル』――ケータイ世代が生み出す新コミュニケーション」CNET Japan
https://japan.cnet.com/article/20389316/
[2]速水健朗『ケータイ小説的。――“再ヤンキー化” 時代の少女たち』(原書房、2008年)。ここで彼はケータイ小説の特徴を「回想的モノローグ」「固有名詞の欠如」「情景描写の欠如」の三点から定義している。
[3]美嘉「切ナイ恋物語🌸恋空🌸前」魔法のiらんど
https://maho.jp/works/16743963567760734681
ひとりでつくること
しかしガラケーの時代、つまり独り言の時代は終わった。理由のひとつはスマートフォンの登場だが、それを牽引したのは間違いなくAppleである。2007年に発売されたiPhoneは、携帯型情報端末がもつ社会的な機能を再構成した。
例えば初期のTwitterもまた、独り言の空間であった。一世を風靡した「〇〇なう」という言葉は、誰かへのメッセージというより独り言だった。それらの独り言と並走するように会話(リプライ)がなされて、タイムラインが形成される。しかし近年はそうではない。例えば東日本大震災の際、メールが遅延して届き、手元にテレビもないなかでTwitterへのアクセスが急激に増加した[4]。その社会的な影響力が明らかにされるなかで、情報=ツイートが嘘か事実かが取り沙汰されるようになっていく。そして利用者が増加することで、独り言であれば問題とならないような冗談や嘘、暴言ですら過剰な批判に晒されることになる。
インターネットへと開かれていながらも、曖昧に閉じたコミュニケーションの場だった「リアル」における独り言は、現在のソーシャルメディアでは許されない。当然、インターネットと独り言を結びつけた表現のアクチュアリティは終焉を迎え、登場人物がスマートフォンを使用する新海誠映画においても独り言は後退していく。こうした状況の変化の一端にiPhoneをはじめとしたスマートフォンの流通があるというのが、僕の実感である。
では、iPhoneはいかなる理念に基づいたデジタルガジェットなのだろう? ここで述べたいのはAppleの成功物語ではない。新海誠の映画におけるコミュニケーション主体としてのキャラクター表現と、Appleの理念が共鳴する点を明らかにすることで、彼の作品におけるデジタルガジェットの機能を考えたいのである。そこでまずAppleが制作した映像に目を向けたい。
Apple Japanは2020年2月28日に、YouTube上でひとつの動画を公開した。「Macの向こうから」[5]と題された30秒ほどの映像には、日本のアニメーションに登場するキャラクターがMac(あるいはMacと似たデザインのラップトップコンピュータ)を使用する様子が次々と映し出された。その中には、新海誠の監督作品である『君の名は。』や『天気の子』も含まれている。そして2020年3月5日には、このプロモーションの一環としてApple Japanによって制作された映像「Macの向こうから — 新海誠」が公開された[6]。こちらはモノクロのドキュメンタリーと、最小限の色彩によって描かれた絵コンテやレイアウト、そして新海特有の乱反射する光に彩られたアニメーションによって構成された映像だ。ここでまず新海が述べるのは「絵や詩といったバラバラの断片が、Macという一台のコンピュータのなかに並列されることで、物語へと昇華することができた」という制作初期の実感である。

「Macの向こうから — 新海誠」より。
これらの一連のプロモーションは、学生・教職員を対象とした「新学期を始めよう」キャンペーンとあわせて行われたものであり、あくまで販促を目的としたものだ。ここで新海が起用されたのは、彼が作品制作にあたってApple製品を使っていることをインタビューなどで繰り返し語ってきたことに由来するのだろう。そして同時に、一台のコンピュータに可能なことを表現するのに、アニメーション映画はもっとも適した題材のひとつだ。その制作過程において扱われる複数のテキストや絵、写真、映像、音声などデータの作成と編集を一台のコンピュータで処理できること。つまり、本来は幾人もの技術者と道具によって成り立つはずの映画製作の分散した制作プロセスの一元化を可能にするコンピュータ、というビジョンの提示のために、新海誠という人物は起用されたのだ。
それは『ほしのこえ』において、新海が脚本の執筆からキャラクターの作画、背景美術、録音、編集までをひとりで行ったという伝説的な逸話によっても裏付けられる。だが彼の映画制作に関わるスタッフの人数は多少の上下はあれど基本的には増加の傾向にあり、例えば『星を追う子ども』(2011)において新海は「編集」を他のスタッフに委任したが、その理由を「日本のアニメの伝統的な作り方で完成させてみる」ことを目標としていたからだと述べている[7]。こうした制作環境の変化と時を同じくして、(偶然に過ぎないのだが)スマートフォンの流通がはじまった。
つまり、2020年の「Macの向こうから」のインタビューで述べられたような、バラバラの断片を一台のコンピュータに一元化した制作は、もはやその時点での新海誠の制作プロセスを記述したものではなかったし、むしろ当のAppleがリリースしたiPhoneの流通とともに、彼の作品で顕著だった独り言という語りの同時代性は失われていったのである。実際iPhoneの発売と同年の『秒速5センチメートル』から四年の月日を経て発表された『星を追う子ども』は、他の作品とはまったく異なる語りの形式で展開するジュブナイル冒険譚となった。
しかし、こうして制作のプロセスが変化していくなかにありながら、デジタルガジェット=スマートフォンは、『君の名は。』において改めて重要な位置を与えられた。この点について、AppleがiPhoneに担わせようとするマテリアリズム(物質性)を、新海誠作品の映像表現におけるキャラクターのマテリアリズムと比較することを通じて考えてみたい。
[4]「平成23年版 情報通信白書」総務省
https://www.soumu.go.jp/johotsusintokei/whitepaper/ja/h23/html/nc143c00.html
[5]当時AppleのYouTubeチャンネルで公開されていた。現在はWeb Archiveで閲覧可能。
https://web.archive.org/web/20200304002138/https://www.youtube.com/watch?v=V85CQzsyvj4
[6]当時AppleのYouTubeチャンネルで公開されていた。現在はWeb Archiveで閲覧可能。
https://web.archive.org/web/20200306030421/https://www.youtube.com/watch?v=gwumhHx3goA
[7]「新海誠『星を追う子ども』監督 インタビューコメント2」コミックス・ウェーブ・フィルム
https://www.cwfilms.jp/hoshi-o-kodomo/special_comment02.php
Appleのマテリアリズム
先ほど言及した「Macの向こうから — 新海誠」では、彼自身を映したドキュメンタリーパートの色彩はモノクロに限定されている。それは絵コンテ/アニメーションのパートを、実写映像から際立たせる以上の効果を発揮していた。
このプロモーション映像は新海が車に乗って移動する様子からはじまる。それに続けて、キャラクターなどが移動する様子を描いたフルカラーのアニメーションをモンタージュしたあとで、空について新海が説明する声が挿入され、そして空のアニメーションへと続いていく。これらは新海による自作解説と、それに呼応する映像を同時に見せているに過ぎない。だがそのあとで彼は自らマイクに向かってセリフを吹き込む。そこでは、その時点での最新作である『天気の子』のアフレコが行われた。「これは僕と彼女だけが知っている世界の秘密についての物語だ/思わず強く願いながら、彼女は鳥居をくぐった」。最終的にはオーディションを勝ち抜いた声優が声をあてるにも関わらず、彼は自ら声を吹き込む。それは『ほしのこえ』のオリジナル版において、主人公の声を監督自ら担当していたことを想起させるだろう。

「Macの向こうから — 新海誠」より。
その声とともに表示されたのは、色の塗られていない線描の状態でヒロインの天野陽菜が手をあわせながら鳥居をくぐる様子だ。そして雨水が空中で停止する。さらに液体が吸い込まれるように上方に向かって移動したあとで、画面はフルカラーに遷移し、彼女は空に放り出される。こうしてこのプロモーション映像は、ドキュメンタリー/絵コンテ/アニメーションが、新海誠自身の声によって架橋されることでクライマックスを迎えるのだ。

「Macの向こうから — 新海誠」より。
雨水が逆流するように空に打ち上げられるともに、キャラクターが雲のむこうに飛び出していくシーンが、新海の囁くような声によって進行すること。上方に吸い上げられた雨水が、ただの線からフルカラーのアニメーションへとモンタージュされること。それはコンピュータに一元化されたアニメーションの制作プロセスが、Appleが一貫して掲げてきたブランドイメージに基づいて裏付けられる瞬間である。
以前からAppleは流体を用いて、自らのブランドイメージを彩ってきた。なかでも象徴的なのは2013年に発売されたiPhone 5sとiPhone 5cにおけるプロモーション用の映像である。それぞれ「Metal Mastered」(iPhone 5s)[8]と「Plastic Perfected」(iPhone 5c)[9]と題された映像で、その躯体は個体化していく流体として表現された。CGを用いてレンダリングされた流体状態の金属/プラスチックが空間のなかに流れ出し、そして徐々にスマートフォンの形に変質していく映像によってiPhoneが表現されたのである。つまりここでは実際の生産=製造の過程から離れて、iPhoneがどのようなマテリアルによって成り立ったものであるのかが、映像表現としてプレゼンテーションされているのだ。

「Metal Mastered」より。

「Plastic Perfected」より。
流体にブランドイメージを託す姿勢は、iPhoneのデフォルトの壁紙においても顕著である。2007年の時点から水中や水滴、そして絵具の流動的な物質性が強調された油絵などを数多く採用してきたAppleは、2017年に発売したiPhone Xの壁紙において、マテリアルに対する美的な思想を完全に露わにするグラフィックを採用した。それはアクリル絵具や水性ペンキを水中で混ぜ合わせたが故に顔料の不均一さが露わになったような、一見すると抽象表現主義の絵画のような、動くグラフィックである。
さらにこれが採用されたiPhone Xは、筐体の側も大きな変化を迎えた。ついに、スクリーン自体が流体化したのである。それまでのコンピュータのスクリーンは四つの頂点が直角な、長方形のものが多かった。しかしiPhone Xで採用されたスクリーンの四隅はカーブを描いて角丸となっており、さらに上部はノッチとよばれる切り抜きによって欠けている。ノッチとは、セルフィーの撮影や顔認証に用いられるリアカメラや赤外線センサーを埋め込むための黒い切り抜きだ。サムスンやファーウェイといった他企業は、宣伝用の写真においてノッチを見えづらくして隠そうとするが、Appleはむしろそれをアイコニックなものとして強調した画像や映像を用いたプロモーションを行う。つまりスクリーンの非矩形化に伴うノッチの搭載は、技術的な不自由ではなく、Appleの思想に忠実なデザイン=表現として扱われているのだ。

iPhone X
こうして「流体としてのiPhone」は、映像表現を通じたブランドイメージの構築を超えて、商品それ自体の物理的な構成要素にまで流れ出してきたのである。こうしたAppleによる流体への関心は、iPhone Xに続いて発売されたiPhone XR/11に搭載されたスクリーンを「Liquid Retinaディスプレイ」と名付けたことからも明らかだ。
そして新海誠を起用したプロモーション映像は、雨の降り止まなくなったびしょ濡れの東京を舞台とした『天気の子』のあとで制作された。さらにヒロインの天野陽菜は、作中で身体が徐々に透明になって液体化するような演出すらなされている。
つまり新海誠の起用は、ただのMacユーザーであるからというだけでなく、マテリアルに対するAppleの思想を表現するための手段としても行われているのだ。Appleと新海誠に共通するマテリアルについての思想を、ここでは「流体のマテリアリズム」と名づけたい。
[8]当時Appleの公式サイトで公開されていた。現在はWeb Archiveで閲覧可能。
https://web.archive.org/web/20140130160051/http://www.apple.com/jp/iphone-5s/videos/
[9]当時Appleの公式サイトで公開されていた。現在はWeb Archiveで閲覧可能。
https://web.archive.org/web/20140320195629/http://www.apple.com/jp/iphone-5c/videos/
新海誠のマテリアリズム
新海誠にとっても、流体というマテリアルは重要だ。
あらためて『天気の子』について考えてみよう。本作ではキャラクターデザインを田中将賀と田村篤が担当したが、そのキャラクターデザインについて田中は「鼻の上に影をいれる」ことに挑戦したと述べている[10]。こうした作画方法は、アニメや漫画において、一般的なものである。

『天気の子』より。
それにしても奇妙な技法だ。なぜなら鼻筋は基本的に上方を向いているので、光源が上にある限り(普通はそうだろう)、顔のなかでもっとも明るくなるはずなのだ。しかしこうして光源を向いた面に暗い色を乗せる描写が効果を発揮することがある。それは流体を描くときである。例えば「水滴 描き方」で検索してみてほしい。すると光源を向いた面に暗い色を塗りつつ、そのなかにハイライトを入れたり、逆に光源から遠い面に明るい色を入れたりすることが推奨されているのが確認できるだろう。
つまり流体を描く際には、その透明感やツヤを描くために、あえて明るいはずの面に暗い色を差し込むことがあるのだ。鼻の上の影は、本作以前の新海誠の作品にはない特徴であり、これまでにない清涼感や透明感を画面に与えている。そしてこうした描画の技法は、キャラクターにみずみずしさを与える以上の効果を作中に与えている。先ほども述べたように、陽菜は、文字通り透明な流体へと変質するのである。物語内の物質的特徴を先取って表現するものとして、鼻の上の陰影は効果を発揮している。
こうしたキャラクターの流体化は、映画制作におけるほとんどすべての工程をひとりで行った『ほしのこえ』においても異なる仕方で実装されている。
その背景美術には既に新海誠特有の光の描写を見出すことができるのだが、それと同時にキャラクター描写に関しては意図的とは思えない不手際が散見される。それは正中線のズレである。正中線とはアニメーションに限らない人物作画全般において対象を立体的に描くための技法であり、左右の眼の中心や鼻筋、口の中央、顎先をつないだ理念的なラインのことである。アニメーションや漫画では、横顔を描く際に意図的に正中線をねじ曲げて口を配置したりすることもある。デフォルメと呼ばれる技術だ。しかし『ほしのこえ』においてはフッテージ毎に異なる仕方で正中線が曲がっているので、それを意図された表現として受容することは難しい。また背景や風景が、写真やCGに基づいて幾何学的遠近法が正しく適応されていることによって、この歪んだ正中線は、物語のなかのキャラクターを異常なまでに視覚的に浮き上がらせている。

『ほしのこえ』より。
だが『ほしのこえ』のオリジナル版を鑑賞すると、正中線のズレたキャラクターに、作画者=新海誠の声が吹き込まれることで、むしろ映像の体験に緊張感を生じさせていることに気が付く。宇宙や太陽系、国連、軍隊、そしてメールのコミュニケーションについて淡々と続く独り言(=物語)のすべてが、新海誠の身体に可能な運動(=線描、パソコン操作、発声など)に還元されていくこと。そして逆に、彼の身体に可能な運動が各データへと解体されて、アニメーションの構成要素に還元されていること。「キミ」と「ボク」と「セカイ」は、新海誠の不器用な身体によって架橋されているのだ。
つまり『ほしのこえ』に見られる正中線の歪みは、オリジナル版においては、表現として効果的に作用しているのである。歪んだ正中線は、キャラクターを不定形な流体化したものとして私たちの前に現象させることで、他の作品にはないリアリティ——それこそがセカイ系と呼ばれる——をまとっている。現実の不器用な身体が、画面内で流体化した身体として現れるとき、私たちは異なる場所にある身体たちを結びつけて認識することすらできるのだ。
たとえば物語終盤で、雨が降る遠くの惑星で涙を流すミカコは、その後で晴れ上がった空の下でノボルへのメールを送る。その次のシーンではもうひとりのミカコが現れて彼女自身に語りかけてくる。しかしその双方の正中線が歪んでいるがために、新海誠の不器用な身体が露わになる。つまり分身と呼ぶには、あまりに違う見た目をしていること。ひとつの空間で向かい合う、複数化した同一のキャラクターの形態が一致しないこと。そうした不器用な描写の結果として、光差す荒野のなかの二人のミカコは不気味な物質性を担わされる。


『ほしのこえ』より。
ここでミカコの身体は、Appleのプロモーション映像においてCGで表現された流体がiPhoneを形作っていくように、実際の物質的成り立ちから遠く離れたところで、不定形に流体化したものとして私たちの前に現象する。そして最後のシーンで、地上と宇宙に引き裂かれたミカコとノボルが同時に発する声。「ここにいるよ」。それは流体としてのキャラクターの声、つまりボクとキミの、作者とキャラクターの境界の消失の宣言であり、キャラクターである彼/彼女らの生きる世界の外に存在する新海誠の身体こそが、彼/彼女を存在させていることの、不気味だが否定できない事実が露出する瞬間だ。そのためにキャラクターは流体として不定形になったのである……と、因果関係をひっくり返して認識したくもなる。
こうして新海誠は、自らの身体の不器用さにおいて、存在の流体化を映像表現へと招き入れることとなった。『ほしのこえ』において表現されてしまった流体としてのキャラクターは、自分の気持ちをうまく伝えることのできないコミュニケーションのもどかしさの表現を通じて、個人的なことと全宇宙規模の政治問題の紐づけを可能にする。それは本作における、ひとつのコンピュータに一元化された映画制作のプロセスがもたらした奇跡であり、それこそがガラケーにおける独り言という発話の様式を再演することにもつながっている。
不器用さの好転に過ぎないとしても、その正中線のズレは、Appleが考えるiPhoneの物質性を意図せず先取って実装してもいるのだ。
[10]『新海誠監督作品 天気の子 公式ビジュアルガイド』(KADOKAWA、2019年)
海から雲に、そして川が流れて
繰り返そう。『ほしのこえ』において、物語の外部に位置する作者=新海誠がその世界と接点を持つのは、作者自身の不器用さのためであった。その身体の運動は、描線や声といった形でコンピュータによってバラバラなデータに解体されながら物語をつくり、奇妙な存在感を放つキャラクターへと変質する。それはAppleが実際の生産過程とは関係なく、流体のマテリアリズムに基づいてiPhoneを表現したのと同じように、キャラクターを流体として物質化するプロセスだ。そして流体のマテリアリズムは、対象の物理的な成り立ちや生産過程から隔てられたところで、対象を物質化することによって、「この世界」と「あの世界」の境界を撹拌し続ける。流体のマテリアリズムがかきまぜるのは、ボクとキミの境界であり、アニメーションの内と外の境界であり、情報と物質の境界だ。つまり身体の不器用さや独り言が発露される空間とは、宇宙規模の遠隔通信におけるデバイス同士の距離そのものなのである。
ここまで語ってはじめて『君の名は。』において、スマートフォンの遠隔通信機能がまったく役立てられなかったことの理由が明らかになる。まずその映画は、すでに新海誠の身体の不器用さや独り言を使用することが困難な制作環境にあった。そのために遠隔通信における距離の認識を消去して、たんに書き置きのメディアとしてのみスマートフォンを用いることで整合性を取ったのだ。『君の名は。』とは、すでに流体化したスマートフォンの前で「好きな人の名前がわからない」という仕方でなされた足踏みである。だからこそ、三葉の口内でつくられた「口噛み酒」という白濁した液体——作中で「三葉の半分」なのだと名指される物質——を瀧が口から摂取することこそが、時空を超えてもう一度出会うための儀式的なプロセスとなるのである。ボクとキミのあいだにあるスマートフォン自体の流体化——情報的平面と呼ぶこともできるもの、あるいはスティーブ・ジョブズが携帯電話からプラスチック製のキーボードを排除することで実現しようとした理念——に抗って、キャラクターそれ自体の流体化のためにこそ、『君の名は。』の物語は展開する。
だからこそ、そのあとで、さらにスマートフォンを後退させた上で、水のなかに沈んでいく東京を舞台とした『天気の子』は重要な作品となった。そこではデバイス同士の距離を超えて、初期作において達成されたキャラクターの流体化を作画と物語の双方において再度実装することを通じて、その作家性を、作画の不手際によってではなく手にしようとしたのだと僕は思う。
そこにあるものが流体のマテリアリズムである。では、そのあとで、私たちはどのような物語を想像することができるだろか? それは虚実の、ボクとキミの、境界を探る旅を超えた「三人以上」の物語にならざるを得ないだろうとだけ書き残して、筆を置きたい。
四年後のあとがき:平和の想像力について
以上が2021年に発表されたテクストである。ここまで読んでいただけた方であれば、Liquid Glassが登場した2025年になって、新海誠とAppleの思想の一致がさらに強まっていることを理解していただけるだろう。Appleがインターフェース・デザインとしてAquaを実装した翌年に、映画『ほしのこえ』は発表されたのであり、当時新海が制作に使用していたPower Mac G4も、Aquaを搭載したMac OS Xに対応している。つまり『ほしのこえ』とは、コンピュータのインターフェースが流体化していくのを確かめながらつくられた作品なのだ。
なお今回自分の文章を読み直してみて、最後の段落に書きつけた「三人以上の物語」の意味は不明瞭に感じられたので、今後も考え続けていきたい。
ところで、この原稿が書かれた当時は平和だった。新型コロナウイルスというものが、報道当初に考えられていたよりは殺人的なものではないと思え始めたからなのか、のんびりした空気感があった。あの時期のことが忘れられない。たんにお金がないから缶チューハイを片手に弾き語りを聴いて回ったり、夜な夜な東京中を友人たちと散歩したり、ネットで出会った名前をしらない人と出かけてみたり、ひっそりと展覧会をつくったり。関西にも何ヶ月も滞在した。生活リズムや死生観、美意識だけで交友関係が組み変わっていくのが幸せだった。遅れてきた青春というか、それまでの人間関係がリセットされていく感覚に身を任せていた。
翌年のロシアによるウクライナ侵攻、イスラエルによるパレスチナへの爆撃、虐殺、第二次トランプ政権による暴挙など、現在の世界を「平和」と呼ぶことは難しい。けれどだからこそ、僕たちの活動や行動が最終的に目指す場所として、あのときの平和を忘れてはならないと思う。
この原稿のような想像力は、おそらく平和な世界のなかでこそ可能なことだ。それを否定し、批判する必要はないと僕は考えている。そうした想像力は「同時代的なものだから」というよりも、むしろ目指すべき場所として、大切にとっておく必要があるのではないだろうか。
『ferne』というメディアが向き合い続ける「セカイ系」に対して僕が希望を感じるところがあるとしたら、それが「大切にとっておくための平和な時代の想像力」だからかもしれない。セカイ系的な想像力を守ったり展開したりすることは眼の前の現実を変えないかもしれないけれど、とてもとても大切な営みだと信じている。
さらに言えば、このように考えて信じることと矛盾するように思われるかもしれないが、僕にとっての芸術とは「世界平和への意志」なのだ。そう最近は思う。地球上の戦争、紛争、虐殺、暴力のすべてに反対すべきだし、それらがなくなった平和な世界で生きることを全面的に肯定するための想像力をつくり、守るべきでもある。まだうまく言葉にはできないけれど、こうして過去を振り返っていると考えるのは平和な時代とそうでない時代の落差である。もう少し頑張ってみます。