〈セカイ系〉vs「破壊の形而上学」――北出栞+飯盛元章対談
北出栞 + 飯盛元章
ともに2024年4月下旬に刊行された、北出栞『「世界の終わり」を紡ぐあなたへ――デジタルテクノロジーと切なさの編集術』(太田出版刊)と、飯盛元章『暗黒の形而上学――触れられない世界の哲学』(青土社刊)。コロナ・パンデミックという経験をある種の「解放」をもたらすものとして捉える視点など共通項を持つ両者が、Spaces上で対談した模様をテキスト化してお届けする。(収録日:2024年4月27日)
[目次]
はじめに
1章 セカイは今、どこにあるのか
〈セカイ系〉とは何か/「距離」と「世界」に関する逆接/「エーテル」の中の歌姫/「恋愛」の脱構築/「半透明」な領域の捕捉/「切なさ」を具現化するために
2章 デジタルな実存の再構築(リビルド)
ポスト『シン・エヴァ』の〈セカイ系〉/「反省」する主体/「REBUILD」とは何だったのか/なぜ「使徒」は消えていったのか/再構築(リビルド)的な鑑賞に向けて
3章 ミュージックビデオ的想像力
「映画」ではなく「動画」のほうへ/「新海誠」のスタイル/レイヤーの美学/グローバルとローカルのねじれた接続/セカイとセカイをつなぐ扉
4章 タッチパネル上で生まれる「切なさ」
音楽家=シナリオライター/「否定神学」を肯定する/「似たもの同士」の共同体/「見えないもの」のありか/スマホ時代の「切なさ」への挑戦/タッチパネルの化身/脳とスマホと創造性
5章 「ポスト・ボカロ」とは何か
2007年という特異点/「セカイ系的主体」/「セカイの狭間」にて/「人間 vs 非人間」という偽りの問題/「自分ではない何者か」になること/「動くイラストレーション」の美学/「ポスト・ボカロ」の共同制作
6章 浮遊する「天使」のサンプリング
TikTokと「シミュラークル」発生のメカニズム/「エモい」とは何か/浮遊するセルフイメージ/ファッションという回路/「天使」を素材に変換する/「文脈」から「感覚」へ
7章 タイムラインの中で「かたち」を捉える
「資本主義の残骸」としての〈セカイ系〉/「空間」と「距離」を作り出すこと/生成のプロセスと「プロトタイプ」/オブジェクト・時空のねじれ・つなぎ直し/「まずは作ってみる」ために
8章 セカイに向けて響く祈りの歌
「音楽映画」における編集的思考/匿名的なつながり/〈世界はどこにもないよ〉/終わる世界に祈りを込めて
おわりに
[目次]
プロローグ 世界は触れられなさで満ちている
1 本書の内容について──暗黒の形而上学
2 本書の方法について──哲学はスイングバイによって思考の深宇宙へ飛び立つ
I わたしたちはすべてを認識できない──断絶
第1章 関係の糸を引き裂き、自由な存在を撒き散らせ
1 ムスビと乗り換え
2 「無縁」の原理──無縁・公界(くがい)・楽(らく)・ヤックル
3 空虚に封じられた非関係的実在
第2章 ホワイトヘッド哲学最速入門
1 マイナー哲学としてのホワイトヘッド哲学
2 ホワイトヘッド哲学最速入門──連続のほうへ
3 ホワイトヘッド哲学に潜む四つの断絶──断絶のほうへ
第3章 ようこそ!狂気の怪奇オブジェクト空間へ──ハーマン入門
1 怪奇的な対象で満ちた世界
2 狂った観者になる
第4章 関係と無関係、あるいは美と崇高──ホワイトヘッドとハーマンの形而上学
1 野蛮な侵犯者としてのホワイトヘッドとハーマン
2 ホワイトヘッドの有機体の哲学
3 ハーマンのオブジェクト指向哲学
4 より崇高なる崇高のほうへ
第5章 思弁的実在論は闇を光に転化させてしまう──ベンスーザン『指標主義』のブックガイド
1 著者ヒラン・ベンスーザンと『指標主義』について
2 指標主義 vs.実体主義──他者の形而上学へ
3 思弁的実在論批判
4 レヴィナス×ホワイトヘッド──汎知覚論へ
5 逆説的形而上学、ポスト思弁へ
note ベンスーザン『指標主義』をめぐって(第5章への追記)
Ⅱ 「法則」の外はとつじょ到来する──破壊
第6章 哲学はなぜ世界の崩壊の快楽を探究してしまうのか──パンデミックから破壊の形而上学へ
note 破壊性へ──メイヤスーの「絶対的偶然性」とハーマンの「汲みつくせなさ」について
第7章 非ネットワーク的外部へ──ラトゥール、ホワイトヘッド、ハーマンから、破壊の形而上学へ
1 方法と形而上学的モデル
2 存在者のネットワーク性──ラトゥールとホワイトヘッド
3 非ネットワーク的外部へ──ハーマン
4 さらなる非ネットワーク的外部へ──破壊の形而上学
note 破壊の形而上学 基本テーゼ(ver. 0.91)
第8章 ディグ的、あるいはスイングバイ的読解
1 永井均『私・今・そして神──開闢の哲学』
2 永井均『遺稿焼却問題』
3 マーク・フィッシャー『ポスト資本主義の欲望』
4 デイヴィッド・J・チャーマーズ『リアリティ+』
5 ブリュノ・ラトゥール『パストゥールあるいは微生物の戦争と平和、ならびに「非還元」』
note 過剰創発宇宙
第9章 闇堕ちの哲学──怒りのダークサイド試論
1 理性的で未来志向の怒り?
2 怒り・変身・闇堕ち
3 純粋な怒りと純粋な赦し
第10章 変身から異世界転生へ──カフカ、ドゥルーズ+ガタリ、マラブー、メイヤスーをめぐって
1 ふたつの変身──サルとグレゴール
2 ふたつの檻──意味的檻と物質的檻
3 「破壊」概念の破壊──破壊的可塑性から〈あらゆるものを破壊しうる時間〉へ
4 「変身」概念の変身──変身から異世界転生へ
エピローグ 破壊の形而上学、略してMOD(モッド)の全面的展開へ向けて
あとがき/初出一覧/索引
本日は、ちょうど著書が同時期に刊行されたということで、哲学研究者の飯盛元章さんをお迎えして、いろいろとお話できればと思います。
改めまして、北出栞と申します。この度太田出版から『「世界の終わり」を紡ぐあなたへ――デジタルテクノロジーと切なさの編集術』という本を、初の単著として刊行いたしました。過去の主な活動としては、2021年から同人誌『ferne』を、現在までに2号刊行しています。この同人誌では、主にサブカルチャーの領域で『エヴァンゲリオン』や新海誠作品などに使われてきた〈セカイ系〉という言葉をキーワードに、音楽、アニメ、文学、哲学などを横断的に論じました。このように、ある特定のキーワードや題材を元に、多様なジャンルのコンテンツをひとつのパッケージにまとめるのが、私のもの作りの方法論です。執筆においても、ロジカルに物事を積み上げて論証するというよりは、並列的にトピックを配置することで、読者の中に、ある種のイメージやテーマが浮かび上がるような書き方をすることが多いです。
サブタイトルにも「編集術」という言葉が入っていますが、北出さんご自身の執筆スタイルも、そうした編集的な方法ということですね。
そうです。実際に今回の本を読んでくださった方々からもよく言われるのですが、特定の結論に向かって掘り進めるのではなく、点在する固有名詞をジャンプしていくことで、中心に漠然としたイメージが最終的に浮かび上がってくるという特徴がある。これは意図したというよりは、私の思考の癖のようなもので、それが文体や内容にも表れているのだと思います。
ヴァルター・ベンヤミンが、そういった書き方をする人だな、とふと思いました。特に『パサージュ論』は草稿ということもあり、題材だけが散りばめられていて、そこから見えてくるものを読者が楽しむ構成です。北出さんの手法と少し似ているように感じました。
そうですね。私はベンヤミンの熱心な読者というわけではありませんが、ある程度は読んでおり、自分と似ている部分があると感じます。
では、飯盛さんのほうからも簡単な自己紹介と、今回の本についてご説明いただけますでしょうか。
はい。飯盛元章と申します。普段は大学で哲学を教えており、研究者として活動しています。主に対象としているのは、19世紀から20世紀にかけての哲学者、アルフレッド・ノース・ホワイトヘッドや、存命で活躍しているグレアム・ハーマン、カンタン・メイヤスーといった現代の哲学者です。彼らの著作を読みながら、「存在するとはどういうことか」や「時間とは何か」といった、形而上学と呼ばれる非常に抽象的な議論を研究しています。
今回の本『暗黒の形而上学――触れられない世界の哲学』は、基本的にはこれまで『現代思想』などのメディアに書いてきた文章をまとめたものになります。このタイトルは編集の方がつけてくださったのですが、キャッチーで気に入っています。「暗黒」というと、いわゆる「中二病」のような印象や、倫理的な悪といったニュアンスを想起されるかもしれませんが、私自身はより形式的な意味で、触れられないもの、アクセスできないものを総称して「暗黒」と呼んでいます。
本の前半では、空間的な「触れられなさ」について論じています。他者は私にとって十全には触れられない向こう側の存在ですし、個々の物も同様です。この世界には、私にとって触れられない他者的なものが満ちあふれている、といった議論をグレアム・ハーマンの哲学に依拠しながら展開しています。そして後半は、時間的な「触れられなさ」がテーマです。未来が現在とはまったく異なったものに突然変貌してしまう可能性について論じています。
文体は、北出さんと対照的なものになっているかと思います。先ほどお話しいただいたように、北出さんは素材をうまく配置して、そこからイメージを浮かび上がらせるという戦略で書かれていると思いますが、哲学の論文はロジックを積み重ねていくのが基本的な作法ですので、私の文章もほぼすべて、論理を重ねて話を展開するスタイルになっています。
これまで発表された文章をまとめた本とのことですが、私は飯盛さんが様々な媒体で書かれた文章のほとんどを拝読してきました。
ありがとうございます。
もちろん哲学のロジカルな形式を取りつつも、飯盛さんの中には明確に到達したいイメージがあるのだろうと以前から感じていました。『現代思想』では特集テーマが設けられていますから、それに合わせて書かれている部分もありつつ、ご自身の目指す方向性が明確にあって執筆されている。そこに非常にシンパシーを感じていました。
そうですね。確かに、例えばカフカ特集でカフカの作品について書く、といった制約の中で執筆してきましたが、そうした役割を果たしつつも、自分がしたい話をその都度してきたという感覚です。向かっていきたい方向性のようなものは、全体を通して共通しているかもしれません。
私が飯盛さんの文章、ひいては哲学にシンパシーを覚えたのは、「破壊」というキーワードを明確に提示されるようになってからです。今回の本の6章に収録されている、パンデミックがそれまでの日常を突如として破壊する一例として論じた文章は、コロナ禍がまだ収束していなかった時期に「現代ビジネス」のウェブサイトで発表されたものだと思いますが、これが私の考えていたことと驚くほどシンクロしていました。私が2021年に同人誌『ferne』の創刊号を作りたいと思ったきっかけが、まさにこれとほぼ同じだったのです。
元々、私自身〈セカイ系〉というテーマに対して、それは自分の趣味嗜好の問題でしかないのではないか、という疑いを拭えませんでした。しかし、そこにパンデミックが訪れた。世界が本当に終わるのではないかというムードが漂い、多くの人が家に引きこもらざるを得ない状況になりました。〈セカイ系〉は、自閉的で、自分の周りの狭い関係性だけを世界のすべてであるかのように語る、といった否定的な文脈で語られがちです。「もう、世界そのものが終わるのではないか」という雰囲気が漂う中で、現実が〈セカイ系〉のクライマックスのようになっていると感じました。
そんな中で〈セカイ系〉を批評的に読み直すということは、公共的な意義があることなのではないかという直感を持ったのです。自分だけの趣味の問題だと思っていたことが、皆で考えるべき問題になったのではないかと思えたことで、同人誌を制作しようという機運が高まりました。こういった経緯があったものですから、飯盛さんの文章を読んで、到来したパンデミックという事態を、ある種ポジティブなものとして捉え直そうと論じている人が自分以外にもいると知り、非常に勇気づけられたんです。
飯盛さんご自身としてはいかがでしょうか。飯盛さんの最初の単著『連続と断絶』でも整理されている通り、ホワイトヘッドは基本的には「連続」と「関係」の哲学者ですが、飯盛さんはその中に「断絶」を見出すという、ある種アクロバティックな形で研究をされていますよね。「破壊」や「断絶」といったテーマへの関心が先にあったのか、それともホワイトヘッドを研究する中でそのテーマを見出されたのか、どちらだったのかがずっと気になっていました。
自分の理解の範囲からはみ出るもの、哲学で言うところの「他者」への関心が先にありました。学部生の頃にエマニュエル・レヴィナスという哲学者の本を読んで、コントロールを超えた他者的なものについての議論が非常に面白いと感じ、その関心は持ち続けていたんです。大学院に入ってからは、それとはまったく別のルートでホワイトヘッドの哲学に着目し、研究を進めていきました。
ホワイトヘッドの世界には、他者的なものはあまり登場しません。基本的には、あらゆるものが絡み合いながら絶えず生成変化し、新しいものが生まれてくるという世界観で、絶対的に触れられない暗黒のようなものはあまりない。ただ、彼の哲学の魅力の一つは、壮大な宇宙論を展開している点です。レヴィナスは、あくまで私とあなたの関係、つまり人間同士の関係という、ある意味で我々の生に沿った限定的な話をしているのに対し、ホワイトヘッドは人間の生から一気に離れて、あらゆる存在を一つの図式で扱おうとする。そのスケールの大きさにもまた興味がありました。
ハーマンも、飯盛さんのようにレヴィナスを解釈している人物だと思います。レヴィナスは、ホロコーストの経験なども背景にあり、人間同士の関係における、倫理についての思索を深めた哲学者ですよね。しかしハーマンは、それを言わばポストヒューマン的に読み解いていく。飯盛さんの中では、ハーマンとの出会いよりも先に、レヴィナスへの関心とホワイトヘッドへの関心との間の綱引きの中でご自身の思索を深め、その後に自分と似たハーマンという哲学者の存在を知った、という順番なのでしょうか。
その通りです。私の中で関心が分裂していて、一方ではホワイトヘッドを読みつつも、レヴィナス的な他者性にも興味がある、という状態で、それらはまったく別の問題として自分の中にありました。そんな中、たまたま見つけたハーマンという哲学者が、その両方をうまくミックスさせていることを知り、強いシンパシーを抱いたんです。人間を超えた壮大な話をするホワイトヘッドと、徹底的に他者との「断絶」を論じるが、あくまでも人間の話にとどまるレヴィナス。ハーマンはその両方のおいしいところを組み合わせて議論を組み立てていたんです。
なるほど。ここでお伺いしたいのですが、「破壊」という言葉を強調することには、非倫理的な危うさがあると受け取られかねない面もあるように感じます。これは私自身にも跳ね返ってくる問いなのですが、飯盛さんが目指しているビジョン……つまり「破壊」を語ることによって、人間の生にどのようなメリットがあるのかという問いに対しては、どのようにお答えになりますか。
確かに、「現代ビジネス」のウェブサイトに書いた時も、ある種の「世界の崩壊、万歳!」といった趣の文章でしたので、それに対する反論のようなコメントをSNSで見かけた記憶があります。今おっしゃられたような、「不謹慎だ」という反応ですね。ただ私自身は、「破壊」を日常的な意味よりもかなり広く捉えていて、今ある状態が突き崩されて何か別の様態に変わってしまうこと全般を指して「破壊」と呼んでいます。ですから、変化のあり方は問いません。例えば、隕石が衝突して文明が滅びるというのが想像しやすい「破壊」のパターンですが、変化後の形は問わないので、何らかの理由で、この人間社会が誰も労働しなくても生活が成り立つようなユートピア的な社会に突然変貌する、というのも私が考える「破壊」の一例です。
パンデミックは、どちらかといえば悪い結果に繋がるバージョンですね。それまでできていた人との交流が突然できなくなり、家の中に引きこもっていなければならない世界に変わってしまった。しかし、悪い側面はありつつも、あの記事では、破壊がもたらすある種の解放感についても書いたように記憶しています。日常は同じことの繰り返しで、退屈な側面があります。朝起きて仕事に行き、帰宅してYouTubeを少し見て寝る、というようなルーティーンの連続です。しかし、そこにまったく違うものが突如として入り込んでくる。これまでとは違うありように自分の世界ががらりと変わるという体験には、それがどのようなものであれ、ある種の解放感が伴うのではないか、ということを論じたかと思います。
なるほど。今のお話で、私との違いを強く感じたのは、飯盛さんがあくまで日常をベースに、そこからの破壊と解放を強調されている点です。これは連続性を説くホワイトヘッドの哲学から出発されていることとも関係するのだろうと思います。
対して私は、時間の連続的な流れ、つまり日常の感覚をそもそも前提としていないところがあります。〈セカイ系〉はしばしば「きみとぼく」の恋愛関係を軸にした物語だと整理されますが、私にとっては、「世界の終わり」が訪れることで、そうした恋愛関係すらもご破算になってしまう、という側面の方が重要なんです。通常であれば、恋愛、結婚、出産と続く物語が、「世界の終わり」によってその先が断たれてしまう。それでも、相手を大切に思う気持ちだけは残る。私はこの側面に、自分が生きていく上でのリアリティを感じるのです。
終わりがいずれ来るだろうという予感が、常に根底にあるということでしょうか。
予感というよりは、すでに終わってしまった世界にずっと生きている、というような感覚です。私が原風景としてイメージしているのは、アニメなどでもよく描かれるウユニ塩湖のような、水平線と水面と空だけが広がり、そこに自分一人がぽつんと立っている、静かで張り詰めた光景です。日常生活を送りながらも、本当の自分は常にそうしたレイヤーに立っていて、どこか遠くの声に耳を澄ましている感覚。誰かと話している時も、本当はその人と同じ空間や時間を共有してはおらず、たまたまチューニングが合っているだけで、本当の自分はウユニ塩湖のような場所にいる。そして、他の人もそれぞれ、自分だけのウユニ塩湖にいて、この現実世界という場においてレイヤー同士が交差することで、見かけ上コミュニケーションが成立しているにすぎないというイメージです。
ある種、孤独が出発点になっている、ということでしょうか。
そうです。孤独というと、孤独死のようなネガティブなイメージで語られがちですが、それをポジティブに、あるいはすべてのベースとして捉え、そこから社会や人生を語り始めることもできるのではないか、と考えています。
〈セカイ系〉について、私もそれほど多くを見ているわけではありませんが、すぐに思い浮かぶのは新海誠監督の『君の名は。』です。あの作品には、世界の崩壊を食い止めようと、二人が何とかして繋がろうと奮闘するイメージがあります。そのイメージと、北出さんがおっしゃるような孤独の感覚とは、どのように結びつくのでしょうか。
それは非常にクリティカルなご指摘です。まず、『君の名は。』が〈セカイ系〉作品としてどうなのかという話ですが、率直に言って、私の中での評価は高くありません。
あ、そうなんですか。
あの作品は、飯盛さんもご著書の1章で書かれていましたが、やはり繋がり、「ムスビ」の物語なのだと思います。私にとって、新海監督の中にあった〈セカイ系〉的なもの、私の言い方でいえば「誰もがそれぞれのウユニ塩湖に生きていて、それがたまたま重なることでコミュニケーションが成立しているにすぎない」という感覚を描いた作品は、デビュー作の『ほしのこえ』だと考えています。この作品の最後で、「ここにいるよ」という二人の声が重なりますが、それは実際には届いていません。新海監督がAdobeのソフトを使って音声と映像を重ね合わせる編集のマジックによって、視聴者にだけ二人の想いが重なっていることが伝わる。その演出が非常に美しい。
飯盛さんはご著書の中で、二人の男女が再会して終わる『君の名は。』と対比させる形で、『秒速5センチメートル』の、二人の男女が再会せずに終わる結末について触れていました。『君の名は。』と『秒速』を対比させることはもちろん可能ですが、より根本的に対照的なのは、『君の名は。』と『ほしのこえ』だと思います。『秒速』の貴樹と明里は、その後会うことはないかもしれませんが、現代日本という物理的な時間と空間を共有してはいます。しかし、『ほしのこえ』の二人は、宇宙と地球という物理的な隔絶に加え、通信手段も断たれてしまう。それでも祈るように互いを思いながら、自分のなすべきことをするという形で物語は終わります。
私は新海作品は、著書で扱った『君の名は。』と『秒速5センチメートル』しか観ていなくて、その2作で少し苦手意識が生まれてしまいました。しかし、今のお話を伺うと、『ほしのこえ』は面白そうだと感じます。
その2作を観て、飯盛さんのような考えの方が苦手意識を持つというのは、非常によくわかります。『ほしのこえ』はぜひ観ていただきたいですね。絶対的な断絶をベースにしているという意味では、『ほしのこえ』に勝る作品は、新海監督の中からその後も出てきていないと感じています。
なるほど。
拙著の中では、むしろ新海監督の『ほしのこえ』が持っていた可能性を受け継いでいるのは、『ブルーアーカイブ』のような、日本のサブカルチャーの影響を受けて海外で作られたゲームのプロモーションリールや、新海作品をコラージュ的に繋ぎ合わせて作られた「新海誠展」の展示映像といった、ある種の二次創作的な作品なのではないかという話をしています。新海誠の「新海誠性」、あるいは「『ほしのこえ』性」とでも言うべきものは、むしろそうした作品に受け継がれているのではないか、と。
すみません、少し立て込んでいてまだすべてを拝読できておらず、「はじめに」と1章、そして重要そうだと思い8章に飛んで、最後に「おわりに」を読んだという状態なんです。今のお話は、その間の章で展開されているのですね。
はい、3章で新海作品について詳しく論じています。
少し話は逸れますが、北出さんのご著書は、段落ごとに一行空けて切断されているような組版が特徴的ですよね。それが、今おっしゃっていた新海作品のような雰囲気も感じさせます。ロジックが連続していくというよりは、一度間を置いて次のテーマに移っていくような、視覚的な効果があるように思いました。
これまでウェブを中心にライターとして活動してきたため、改行やインデントではなく、ブロックごとに一行空けるという書き方が身に染み付いていました。それをデザイナーさんに反映していただいたのですが、今おっしゃっていただいたような効果も確かにあるように思います。私の思考のリズムそのものが、こうした空白を必要とするのかもしれません。
この空白を詰めてしまうと、まったく違う印象になりそうです。それから、8章を読んでお伺いしたかったのですが、「切なさ」というのは、この本の中で最終的にどういうものとして位置付けられるのでしょうか。1章で、デザイナーの戸田ツトムさんが80年代にいち早くコンピュータを導入した時のエピソードが紹介されていました。まだ性能の低いコンピュータを使ってデザインすることの、ある種のぎこちなさ、ままならなさについて書かれているのだと解釈しましたが、この「ままならなさ」と「切なさ」は繋がっているのでしょうか。
はい。それは先ほどの『ほしのこえ』の話と同じ構造です。同作が公開された当時のインターネットはダイアルアップ接続で、なかなか繋がらなかったり、電波が悪ければ途切れたりしました。メールの送受信にも時間がかかり、「メールを送信しています」というドット絵のアニメーションが流れるような時代でした。今のように、即レスや既読スルーが当たり前の世界ではなかった。返事を待つ間の時間や、届いているかどうかわからないという曖昧さの中に留まる感覚。その中で生じていたのが「切なさ」だと、本書では定義しています。
レスポンスが非常に速くなった5G時代の現代において、その感覚を味わうことは難しくなっています。だからこそ、過去の〈セカイ系〉作品や、戸田ツトムさんのように先駆的にコンピュータで創作をしていた方々のテキストを読み直すことで、その感覚を想像することができるのではないかと考えました。また、「切なさ」は「切」という漢字が含まれていることからも窺えるように、連続的なコミュニケーションが「切断」される感覚を表す言葉でもあると思います。しかし、それは完全な断絶ではなく、「届いているかもしれない」「届いているといいな」「どうか届いていてくれ」という祈りに似た感覚も含んだものである。断絶の一歩手前であり、繋がりの一歩手前でもある、その中間にある感覚を「切なさ」と定義しました。
なるほど。その「届いていてくれ」と祈ることが成立するための存在論的な前提として、それぞれがウユニ塩湖のような場所に孤立している、という構図があるのですね。
はい、おっしゃる通りだと思います。
腑に落ちました。色々と繋がった気がします。
ちなみに、本書の執筆にあたって「切なさ」を主題にした先行研究も探したのですが、「切なさとは何か」を論じたものはほとんど見当たりませんでした。最近、似通ったバズワードとして「エモい」という言葉が登場し、それについて論じた文献はいくつかあるのですが。
確かにそうですね。
「エモい」という言葉は、『君の名は。』が公開された2016年の流行語大賞にランクインしています。つまり、スマートフォンとSNS以降の時代に、かつて「切なさ」と呼ばれていた感覚を誰かと共有=シェアするために開発されたのが「エモい」という言葉なのだと思います。シェアの手前にある、感覚そのものを表す言葉として「切なさ」を位置付けられると考えたのです。
「エモい」は元の「切なさ」が持つニュアンスを、少し損なってしまっているのかもしれませんね。届いているかどうかわからない、その祈りのような感覚に名前をつけて皆で共有する道具が「エモい」だとしたら、何か踏み越えてはいけないものを踏み越えているような気もします。
もちろん、根底にある感性そのものは変わっていないはずですし、それを否定したいわけではありません。ただ、「エモい」という言葉にした瞬間、どうしてもシェアするという目的へと意識が絡め取られてしまい、「祈り」のニュアンスが剥ぎ取られてしまう感覚はあります。本の最後を「祈り」の話で締め括ったのには、そうした問題意識がありました。現代は、「祈る」ための場所や時間が失われてしまった時代だと感じるんです。あらゆるものに常に接続されている状態では、一人で静かに行う「祈り」は成り立ちません。
今回のお話の中で、ゼロ地点としてのウユニ塩湖、祈り、切なさ、そしてレイヤーといった、重要なキーワードがいくつも出てきました。その辺りを改めて一つの存在論として描かれると、また非常に面白い本が生まれそうだなと感じます。
そのように整理していただけて、大変ありがたいです。これからの活動にとっても、大きなヒントになりました。



