「機械の声」の美学のために――KAMITSUBAKI STUDIOとバーチャルカルチャーのマトリクス
北出栞
本記事の元になった原稿は、批評家の村上裕一氏が主宰する同人誌『exp.2 VTuberとキャラクターの諸問題』の寄稿募集に応じて執筆されたものだ。寄稿を呼びかける記事の中には「資本主義社会の消費文化の中核を占めるVTuber、その可能性や臨界点について、あなたの切り口で論じてください。」との一文があった。
VTuberをあくまで配信者の一形態と見なした場合、ポスト・フォーディズム体制下における「モノからコトへ」という消費スタイルの移行や、メガプラットフォームに依存した基本無料の広告モデルによって成り立っていること、「すべての労働者が個人事業主化する」とも表現されるギグエコノミーの浸透と軌を一にしているといった意味合いにおいて、確かに現代の消費文化の中核を占めていると言える。
しかし、そのときVTuberの元々の意味である「バーチャルYouTuber」の「バーチャル」という要素は、グッズ展開や異業種とのコラボレーションのしやすさなど、二次元イラストを基盤としたキャラクターコンテンツ「でもある」という、二次的な属性に押しやられているとも言えるだろう。
現代の経済構造においては、プラットフォーム上でなされるコミュニケーションとその統計データが優位に、コンテンツが劣位に置かれる。そしてVTuberとは、そうした経済構造をまさしく体現した文化現象である。まずはこの前提から始めたい。
神椿というバーチャルカルチャーの「特異点」
先述したような経済構造の中にあって、はじめから「コンテンツ志向」[1]を見せていたVTuber関連の事例はないのだろうか。
にじさんじ・ホロライブの台頭に象徴される2018年の第一次VTuberブーム以降、この方向性で最も大きな成功を収めているのがKAMITSUBAKI STUDIOだろう。同年10月にデビューした花譜をはじめ、複数のバーチャルアーティストを擁する同スタジオは、正確にはVTuber事務所ではなく、あくまで音楽コンテンツの制作・流通を事業の中心としている。
とある音楽投稿アプリでたまたま後に花譜として活動することになる地方在住の中学生(当時)をスタッフが発見したところからその歩みは始まったというが[2]、そもそも母体であるTHINKRは広告案件の受託制作を行う企業であった。花譜の歌声という唯一無二の才能との出会いはもちろんのこと、最新のメディアテクノロジーを駆使するリソースがあらかじめあったことは、大きな先行優位性となったと思われる。
[1]東浩紀『ゲーム的リアリズムの誕生――動物化するポストモダン2』(講談社現代新書、2008年)におけるメディアの二分類、「コンテンツ志向メディア」と「コミュニケーション志向メディア」の整理を念頭に置いている。東によれば、前者が送信者と受信者の非対称性を特徴とし、「ひとつの始まりがあってひとつの終わりがある、単一の時間的継起をもったコンテンツ」の配信に適している一方(例:出版、ラジオ、テレビ、映画、CD)、後者は受信者もコンテンツに干渉することができる、いわゆる「双方向性」を特徴とし、「単一の時間的継起をもったコンテンツ」の配信には適さないとされる(例:ゲーム、インターネット)。
[2]「中学生でバーチャルシンガーに。花譜が経験した「わたしの拡張」とは? PIEDPIPER×佐久間洋司」CINRA
https://www.cinra.net/article/202301-piedpipersakumahiroshi_mrymh
その後、理芽、春猿火、ヰ世界情緒、幸祜という4人のバーチャルアーティストを次々とデビューさせた同スタジオは、2021年、花譜を含む5人で新たなユニット・V.W.P -Virtual Witch Phenomenon-を始動させる。
同時期には5人それぞれの歌声を学習した合成音声ソフトウェア「音楽的同位体」シリーズを発売し、特に花譜の歌声を基にした「可不」は、いよわ「きゅうくらりん」、ツミキ「フォニィ」など、近年のボーカロイド音楽シーンを代表すると言っていい楽曲を数多く生み出している。
音楽的同位体は、ビブラートやしゃくり上げなどデータの基となったシンガー「本人」の歌唱の無意識のニュアンスも再現できる、CeVIO AIという技術によって成り立っている。平たく言えば深層学習によって「人間らしい」歌唱を実現するソフトウェアなのだが、一方で花譜とは「似て非なる」存在となるよう――つまり「人間らしくなりすぎない」よう――細かな調整を施しているといい[3]、実際、Synthesizer Vというまた別のAI技術を用いたバージョンの「可不」は一度開発が発表されたものの、花譜本人からの申し立てがあり発売中止となった(発売中止にあたって発表された声明文の内容は、本人と区別がつかないほどに模倣の精度が高くなってしまったため、本人が拒否感を覚えたと解釈できるものになっている)[4]。
[3]「Vtuber界隈からボカロ界隈へと広がる新ムーブメント「音楽的同位体・可不」 | ネット発の新ムーブメント・Vtuberの音楽シーンを探る 第3回」音楽ナタリー
https://natalie.mu/music/column/497092
[4]「バーチャルシンガー花譜の歌声合成ソフト「可不」Synthesizer V版の発売中止を決定」KAI-YOU
https://kai-you.net/article/91503
『神椿市建設中。』というメディアミックスプロジェクトを展開しているのも特筆すべき点だ。
2019年に始動した同プロジェクトは、人類文明が壊滅的打撃を受けた世界における架空の都市「神椿市」を舞台としており、2021年、当時の情勢もあって「アフターコロナ時代における新しい“遊び“を産み出すプロジェクト」であることを謳い、期間限定のオンライン謎解きゲームとして最初の姿を現した。それぞれ本人とそっくりなビジュアルを持つ「魔女の娘」と呼ばれるキャラクターをV.W.Pのメンバーが演じる形となっており、そもそもが「バーチャル」な存在である彼女たちに「演技」のレイヤーを噛ませることで、「現実」と「虚構」の関係をもう一段複層化させるプロジェクトとなっている。
作中設定としては、「魔女の娘」の歌には特別な力があるといい(その歌がV.W.Pの楽曲として実際にリリースされている形になる)、「テセラクター」と呼ばれる怪物と歌の力を用いて戦うというSF的なストーリーが展開する。2023年からはメンバー個々のワンマンライブを「SINKA LIVE SERIES」と銘打ち、神椿市での新たな物語を連作形式で見せていく展開を実施。その集大成となるのが、2024年1月に代々木体育館で開催されたV.W.Pのワンマンライブ『現象II-魔女拡成-』であった。
さらに、2024年8月にはリズムゲーム『神椿市協奏中。』、2025年3月にはテキストアドベンチャーゲーム『神椿市建設中。 REGENERATE』といったゲームタイトルもリリースされ、2025年7月には『REGENERATE』から直接繋がるストーリーが展開するテレビアニメ版も放送を開始する。
これらのマルチメディア展開に共通しているのは、世界観の提示の仕方が断片的であり、ユーザーにその欠片を集めてもらうことを「共創」という言葉で表現している点だ。謎解きゲームの折から公式Discordチャンネルを開設するなどファンコミュニティの活性化も意識的に行っており、NFT技術を活用してファンに神椿市の「住民権」を与える「KAMITSUBAKI Resident Genesis」も実施している。この取り組みは長期的には、メタバース空間において「実際に」神椿市を建設する「KAMITSUBAKI VERSE PROJECT」へと発展していくとのことだ。
以上がKAMITSUBAKI STUDIOの大まかなあらましである。これらの取り組みに見通しを与えるためには、スタジオ立ち上げの根底に従来の音楽業界やVTuber業界の仕組みに対するカウンター意識があったことを押さえることが肝要である。
花譜を発掘した当人でもある統括プロデューサーのPIEDPIPERは、「バーチャルアーティストはキャラクターや映像を活用して足りない部分を補強し才能を最大化できるため、今までアーティストになろうと思わなかった「隠れた才能」を持つ人でもアーティストになれるということです」[5]「例えば、東京に住んでいないとか、ご両親が顔出しを反対するとか、いろんな障壁があるのですが、バーチャルや覆面はその壁を外すことができる」[6]と「バーチャル」のメリットを語りつつも、「VTuberにとっての「キャラクター」というインターフェースは使い方によっては個人を守る“盾”にもなるし、“封印”にもなり得ます。〔…〕“VTuber業界から脱線している身”としてシーンを少し遠くから見渡して今感じていることは、この業界の「未だ圧倒的な未知なる可能性」と「中の人に対しての無自覚な愛の足りなさ」でした」[7]と、「キャラクター」を「人間」に優先させる姿勢に強い拒否感を示す。
[5]「「リアルとバーチャルの境界線を行き来したい」 花譜 総合プロデューサー PIEDPIPER インタビュー」テレ朝POST
https://note.com/post_tvasahi/n/nf847f40fdb8c
[6]「花譜、カンザキイオリら擁する〈KAMITSUBAKI STUDIO〉が創生する音楽×物語 統括Pに聞く、2030年見据えたエンタメの考え方」Real Sound
https://realsound.jp/2021/02/post-702895.html
[7]「花譜ファーストライブ「不可解」への想い」不確かなものをつくります。
https://note.com/futashika/n/n382a4780b8bd
個人の感情労働に依存しないこと。あくまで楽曲を中心としたコンテンツを軸に、ファンコミュニティを育てることで持続性を担保すること。YouTubeというメガプラットフォームに依存せざるを得ない収益構造についても、NFTやメタバースなどのWeb3技術――ブロックチェーンを基盤とした、非中央集権型のネットワーク技術――にコミットすることで、オルタナティブな形を模索する姿勢を見せている。
このような一連の活動が、VTuberという現代の資本主義システムと癒着した文化現象そのものに対する批評的なアプローチとなっており、これ以上第三者が言葉を尽くすべきことは何もないようにも思える。
〈セカイ系〉の「リビルド」という試み
それでも私が筆を執る必要性を感じたのは、ある「批評的」なキーワードによってこのスタジオのクリエイティブの方針が定められていると知ったからである。
2024年8月に公開されたPIEDPIPERによるnoteの記述によれば、スタジオ立ち上げにあたって「00年代に流行した「セカイ系」を敢えて現代に僕らなりにリビルト(原文ママ)してみたいという構想」[8]が存在したというのだ。
〈セカイ系〉とは主に2000年代のアニメ、ライトノベル、漫画などの領域でよく見られた物語の様式である。使用する論者によって定義が分かれる非常に融通無碍な概念なのだが、ここではライターの前島賢による「ポスト・エヴァ」のパラダイム――1995年のアニメ『新世紀エヴァンゲリオン』以降の、「ロボットもの」「超能力もの」といったSFのサブジャンルに対する自己言及性を特徴とする――に属する作品群という定義[9]を参考にしつつ、KAMITSUBAKI STUDIOの作風とも照らし合わせて、「閉鎖的な箱庭世界と、それを外側から支えるメタレイヤーからなる多層構造」「箱庭世界の崩壊により、メタレイヤーの存在が露呈するメタフィクション的な物語展開」「“終末もの”に特有のダークさ、厭世観といったテイスト」「箱庭世界とメタレイヤーの関係がブラックボックス化されており、その説明は抽象的なものにとどまる」といった点を特徴として挙げておこう。
実際、ファンが『神椿市建設中。』の世界観を知る機会は長らく期間限定の謎解きゲームやライブの幕間など、断片的な情報を伝えることしかできない場に限られてきた。2025年現在はウェブ上に用語集[10]が整備されているが、「テセラクター」のようにその根幹をなすはずの設定でさえ「人を喰い殺し、その記憶や〘存在〙を取り込む性質を持っている」といった具合で、未だ抽象的な記述にとどまっている。受け手に解釈の余地を多分に残すこうしたコンテンツとしてのあり方は、「使徒」「人類補完計画」などの意味深なワードが乱舞する『エヴァ』以来の〈セカイ系〉的ストーリーテリングを継承したものと言えるだろう。
[8]「神椿横浜戦線 DAY1&DAY2、TVアニメ『神椿市建設中。』、バーチャル舞台劇「御伽噺」などについて。」不確かなものをつくります。
https://note.com/futashika/n/n16aeb7f01815
[9]前島賢『セカイ系とは何か――ポスト・エヴァのオタク史』(ソフトバンク新書、2010年)
[10]2023年にリリースされたテーブルトークRPG『神椿市建設中。NARRATIVE』のルールブックの一部として存在している。
https://uc-narrative.kamitsubaki.jp/rulebook/confidential/

TVアニメ『神椿市建設中。』キービジュアル。主人公たちの背後に「テセラクター」のシルエットが描かれている
また、舞台となる神椿市はユーザー参加型の仕組みによってその「共創」が試みられる、典型的な箱庭世界である。しかし既存の〈セカイ系〉とは異なり、箱庭世界=神椿市の外部にはWeb3技術によるユーザー参与の仕組みが実在しており、箱庭世界を支えるメタレイヤーを最新のメディアテクノロジーを用いて実装しているという意味では、確かに「リビルド」と呼ぶべき〈セカイ系〉の革新があるかもしれない。
その上で私が問題にしたいのは、VTuber/バーチャルアーティストの文脈に〈セカイ系〉的なメタフィクション性――「現実」と「虚構」が反転する構造――が持ち込まれた場合、アクターの「有限な生」を尊重せよというドグマが受け手に対して押し付けられる形になりかねないという点である。
どんなに人工的な箱庭世界が主であるという構えをとったとしても、その根幹がアクターのパフォーマンスに依存する以上、メタフィクション的な物語展開によって露出する「現実」は、アクター自身の「有限な生」と重なるものにならざるを得ない。生きた人間の有機的な「肉」としての側面がむき出しになることは、必然的に避けられないのだ。
「機械の声」と「肉」の衝突
私がこのことを実際に感じた体験として、会場となった代々木体育館に直接足を運んだV.W.Pのワンマンライブ『現象II-魔女拡成-』の内容を振り返りたい。
多数のゲストを招くことが事前に予告されていた同公演では、V.W.Pの5人とともに彼女たちの音声データを基にした「音楽的同位体」のキャラクターであるV.I.P -Virtual Isotope Phenomenon-が3Dモデルで登場し、その名も「機械の声」という楽曲を「10人で」歌唱するというパートがあった。V.I.Pのために書き下ろされたというこの楽曲の歌詞は、創作の苦悩にあえぐ音楽クリエイターに向けてソフトウェアがその決して届かない想いを独白する内容となっており、「意志を持たぬからこそ美しい 鉛のような存在でいてほしい」という、クリエイターからソフトウェアへの願望と、「無価値だと誰かが笑っている 生きていない そのことが仇になる」「それなのに貴方は 飽きもせず僕らのことなんで愛してるの?」という「機械の声」が、交わらないままひとつの楽曲の中で同居するというものになっている。
歌唱の無意識のニュアンスすら学習しつつも、「本人」には決して近づかないよう調整を施されているという背景上、V.I.PはV.W.Pにある意味で「憧れる」存在として生まれており、しかし機械のように精確に歌うことを、あくまで道具であるがゆえに望まれもする。
もし彼女たちに心があったなら、このアンビバレンスをどのように受け止めるだろうか。
初音ミクをはじめとする合成音声キャラクターたちによって脈々と歌い継がれてきたテーマを、しかしそのオリジナルであるV.W.Pと並び立って歌っている光景は、これまでにないまったく新しい感覚を私に呼び起こした。バーチャルアーティストとして「現実」と「虚構」の狭間に立つV.W.Pも、ある意味では完全な永遠性を手にしたV.I.Pへの「憧れ」を抱いているのではないか……。
そう思ったとき、「現実」と「虚構」の狭間に立つ「バーチャル」の美学と、大文字の「世界」に対する批判的な視線をその名に掲げる〈セカイ系〉の美学が交差したのである。
人間がソフトウェアに向ける願望を、ソフトウェア自身が汲み取って歌う(そして、人間である私たちがそれを聴く)というこの構造は、被造物(「虚構」レイヤーの存在)が造物主(「現実」レイヤーの存在)に対して語りかけるという意味で〈セカイ系〉的なメタフィクション構造を内包しており、それはV.W.Pがキャラクターを演じる、『神椿市建設中。』の物語構造とも重なるものだ。
こうした複層的な構造が、歌=空気の震えという物理的な次元で観客に作用していることに、〈セカイ系〉の新たな形態を垣間見た気がしたのである。
しかし実際にはそのような解釈を許すまいとするかのように、V.W.PとV.I.Pの姿が映し出されたモニタの上段に設えられたステージで、コスプレ風の衣装を纏ったダンサー集団がその身をくねらせていたのだった(上掲の動画を参照)。
このダンサー集団は「VALIS」といい、アバターでの活動と肉体を晒しての活動を並行して行っているグループである。もともとはKAMITSUBAKI STUDIOとは別ラインのスタジオであるSINSEKAI STUDIOに所属しており、同スタジオが2023年にKAMITSUBAKI STUDIOに吸収された後も「リアルとバーチャルを行き来する」ことをコンセプトに活動を続けている。
PIEDPIPERは2021年のインタビューで、「VALISには、KAMITSUBAKI STUDIOでやってきた流れを「拡げる可能性」と「やや方向性がずれてしまう可能性」がどちらも存在」していると認めつつ[11]、最終的に「VALISのオリジン(筆者註:本稿でアクターと表現している存在のこと。「中の人」という表現に違和感を覚えたことから、細田守『竜とそばかすの姫』を参考に用いるようになったのだという)達がバーチャルと共存させる形で「再び表舞台に立って活躍したい」という気持ちを持っていたことがやはり大きく、その想いをしっかりと受け止めたいという構想を元に、VALISのプロジェクトは動き出しました」[12]と述べている。
[11]「VALIS 1stワンマンライブ「拡張メタモルフォーゼ」について」不確かなものをつくります。
https://note.com/futashika/n/n7d5fe2d1669c
[12]同前
しかし、VALISというアーティストに対する以上の方針は尊重するとして、それを「機械の声」のパフォーマンスに重ねることに関しては、やはりミスマッチだったと言わざるを得ないのではないか。
確かにライブ会場では、私を含む観客も皮膚や鼓膜といったセンサーを伴ってそこにおり、だからこそ歌を「空気の震え」として感じ取ることができたという事実は否定しない。しかし、機械は人間にはなれないし、人間も機械にはなれない……そんなことは「言われずともわかっている」ことであり、V.W.PとV.I.Pが並んでいる光景だけでも、十分な表現の強度を備えていたように思う。
アバターの背後に「肉」を伴った人間が存在すること、それについては了承した上で沈黙を保つこと。その中に立ち上がってくる感覚こそ、バーチャルカルチャーにおいて特有のものではなかったか。
「肉」を拒絶する時代
なぜ「肉」の現前性は、かくも強烈な意思をもってライブに持ち込まれたのか。この問いに対する、おそらく回答と言える出来事が、翌日に同じく代々木体育館で開催された花譜のワンマンライブ『怪歌』で起こった(こちらには筆者は不参加)。「廻花」という、花譜の「オリジン」がシルエット状の姿で直接ステージ上に立つ――正確には、収録スタジオから本人の姿を生中継させ、CGの舞台美術とリアルタイムで融合させているとのこと[13]――「バーチャルシンガーソングライター」としての活動が始動すると、サプライズで宣言されたのである。
[13]「「神椿代々木決戦二〇二四」ありがとうございました」不確かなものをつくります。
https://note.com/futashika/n/ne9a077827607
こうした活動形態をとることになったのはPIEDPIPER曰く、本人の「花譜は“みんなで作っている”という感覚をずっと持っていて。もちろん、そのチームの一員であることは誇りだと思っている反面、何かを褒めてもらったとしても、そのすべてを私自身に向けられた言葉として素直に受け止められないこともありました」[14]という思いを受けて、彼女自身の言葉を自信を持って届けるための、花譜とはまた別のラインを設ける必要があると判断したからだという。「花譜」と「廻花」の関係について、PIEDPIPERは次のように述べている。
KAMITSUBAKI STUDIOの考え方としては、オリジンが拡張した先にバーチャルの新しい表現や発明があると捉えているんですね。誰かがキャラクターを演じているのではなく、オリジンがいて、その人の可能性自体を広げてくれる、機能拡張してくれる選択肢のひとつとしてアバターがあるというか。
そこに上下関係や優劣があるわけではなく、バランスを取りながら並行して活動をしていくのが、次世代アーティストのひとつの在り方なのではないかと。そういう考えの上で、花譜以外のアーティストでもアバターとオリジンの関係性を発展させるような新しい表現への挑戦はずっと続けてきました。例えばVALISもその大事なひとつですね。[15]
誠実な言葉であると思う半面、やはり拭い去りがたい「肉」への拒絶感が首をもたげてしまう。たとえシルエット状の姿にとどまっているとしても、いやむしろだからこそ、その向こうにある「肉」の存在が強く意識されてしまうのだ。「アーティスト本人の意向は第一に尊重されるべき」……そんなことは百も承知である。しかし「肉」の存在を忘れたい、それでも人の歌う歌に心を震わされたいと願う者にようやく訪れた福音として、バーチャルカルチャーは到来したのではなかったか?
[14]「花譜/廻花とPIEDPIPERの対談」廻花 Official Website
https://kaika.kamitsubaki.jp/interview/
[15]同前
もちろん、これは私が長く花譜の活動を追ってきたわけではない立場だからこそ抱く思いなのかもしれない。実のところ、クールで無機質なビジュアルを持つV.W.PのメンバーがMCで「等身大」の日常会話をしていた光景にすら、面食らってしまった人間ではあるのだ。
しかし、最初から活動を追っていて、私が好きなのは「オリジン」なのだ、という者しかコンテンツを楽しめないということなのであれば、それはそれで観客を選別していることにはならないのか。
「肉」に対する拒絶感を示す私の感性は特異なものではなく、むしろ同時代的なものである可能性がある。
哲学者の稲垣諭は『絶滅へようこそ』という2022年の著作の中で、自身の教える学生が海水浴を「砂がついたり、身体がベトベトして汚れるのが嫌で面倒くさい」といった理由で嫌っていることを驚きとともに記述している。
稲垣はこうした感覚を持つ者が増えたのと同時代の現象として、画像加工アプリの普及やK-POPアイドルの人気、脱毛ブームなどとともにVTuberについても言及し、「ツルツル教」というドグマが時代を席巻していると語る。また、稲垣はこれに関連して、世界各国で若者の性行為離れが進んでいることについてもデータを引きつつ言及しているが、別のところでは映像作家の中村佑子が、やはり自身が教員として接する学生について「アロマンティックやアセクシュアル、つまり誰とも恋愛したいと思わないし、性的に惹かれない人が増えているという感触がある」[16]と述べている。
両者の論述の基調をなすのは、気候変動や長引く国家間戦争による未来の見通しの立たなさや、ソーシャルメディア上での相互監視が加速させる社会のクリーン化、エビデンス至上主義の蔓延といった時代認識であり、そこから「肉」や「性」のもたらすノイズを徹底的に排除し、機械のように効率的な存在となることへの人々の希求が増しているという洞察が導かれるのである。
[16]中村佑子「なぜこの世界で子どもを持つのか 希望の行方 第1回」集英社新書プラス
https://shinsho-plus.shueisha.co.jp/column/why_have_children/29501
KAMITSUBAKI STUDIOのファンに若い世代が多いことは、PIEDPIPERのインタビューでもよく言及されている。私は該当する世代ではないし、「肉」や「性」に対して拒絶感を覚える理由も、先述の時代認識とは必ずしも一致していない。そもそも若い世代が皆同じ価値観を持っているとは言えないわけだが、私の脳裏には機械のような存在になることを希求する人々が、花譜やV.W.Pのアニメ調のビジュアルに惹かれてライブに参加し、事故的にVALISや廻花と遭遇してショックを受けるというビジョンがどうしても浮かんできてしまう。
アーティスト本人の人格や想いはもちろん尊重しつつ、でも「肉」は苦手なんだ、と言えるような語りの回路を作ることはできないのだろうか。
「生」への駆り立てと批評の困難
ここで思い出されるのは、〈セカイ系〉の起源たる『エヴァ』の劇場版『Air/まごころを、君に』でも、生身の観客をスクリーンに映す演出は行われていたということだ。それは公開当時にはアニメに耽溺する「オタク」たちに対して「アニメを観るのをやめて現実へ帰れ」と促すメッセージであると論じられたわけだが、あくまで一本の映画作品というフレームの中に収まっていたからこそ、その意味は一元化されず、解釈という行為を通じて各々の人生の中にそれぞれの形で意味づけられることになった(その解釈の多様性が、たとえ旧版をリアルタイムで体験した者たちの間であっても『シン・エヴァンゲリオン劇場版』の結末に対する評価を二分したのだと思われる)。
『エヴァ』における「現実(作品というフレームの外側)」と「虚構(作品というフレームの内側)」の二層構造を踏まえて〈セカイ系〉コンテンツとしての花譜/廻花を考えたとき、「現実」はアクターの「有機的な生」と不可分なものとして、送り手側から一方向的に押し付けられているように感じられる。このことは、昨今議論になりがちな「作品」ないし「コンテンツ」という単位、ひいてはその批評の困難という事態を反映しているように思われる。
つまり、プラットフォーム優位の時代においては、「生きている人間」こそが何よりの「コンテンツ」であると見なされるからこそ、批評という、「現実」と「虚構」の関係を複数化させるような行為も難しくなっているのではないか。
ストリーミングサービスとソーシャルメディアがインフラとして浸透した現代のメディア環境においては、「終わらないコンテンツ」を生み出しユーザーを動員し続けることがより多くの資本を生む。メディアプラットフォームにとって、ユーザーの認知(アテンション)こそが最大の資本の源泉なのだ。統計データと人間工学に基づいた「なめらかな」ユーザーインターフェースはコンテンツの視聴を深く意識させないままに行わせ、利用するほどに成長するマッチングアルゴリズムが、またユーザーのメディアプラットフォームへの依存を高めるというフィードバックループを生む。
その上、コンテンツの制作者はおしなべてメディアプラットフォーム上に実在しており(VTuberとはコンテンツ制作者自身がコンテンツという意味で、その最たるものだ)、彼ら彼女らの実人生に対する影響を考慮できなければ、コンテンツへの言及は許されない。そうして「ケア」という言葉だけが、唯一口にすることが可能なスローガンとなっていく。
こうした情報環境の全面化によって、今日における批評の困難は生じているのだ。映画批評の大家・蓮實重彥の第一論集のタイトル『批評 あるいは仮死の祭典』を引くまでもなく、批評とはひとまとまりの対象を、少なくとも一旦は冷たいオブジェクトとして眺める……つまり、対象に仮想的な「死」を与える行為である。
もちろん、だからこそ「生きている人間」が対象の制作に関わっているという事実に都度立ち返る必要があり、それこそが批評という営みと不可分な倫理でもあったはずなのだが、レコメンデーションエンジンによって次々とコンテンツを消費させ、認知を吸い上げる現代の資本主義システムは、批評の対象となるコンテンツと「いったん距離をとる」という行為すら、容易にはさせてくれない。
バーチャルカルチャーの四象限マトリクス
プラットフォームとアルゴリズムによる「生=現在」への駆り立てと、「批評=対象に死を与える行為」の困難。この二重の問題の解決を、バーチャルカルチャーにおける「現実」と「肉」の分離によって試みたい。「現実/虚構」と「肉/非−肉」という二軸からなる、四象限のマトリクスを導入するのだ。
参考にしたいのは、メディアアーティストの落合陽一による著作『デジタルネイチャー』に登場する図式である。これはデジタル技術の社会実装により、従来のそれから変わりゆく「人間」像を捉える目的で示されたものだ。

Fig.1: 落合陽一『デジタルネイチャー――生態系を為す汎神化した計算機による侘と寂』(PLANETS、2018年)より引用。
「物質/実質」という縦軸を「肉/非−肉」に、「人間/機械」という横軸を「現実/虚構」に置き換えてみる。するとVTuber/バーチャルアーティストに関して、以下のような図式を描くことができる。

Fig.2: Fig.1を参考に、筆者により作成。
- 虚構+肉:アクターの肉声のニュアンスを再現するソフトウェア(例:合成音声ソフトウェアとしての「音楽的同位体 可不」)
- 現実+肉:VTuber/バーチャルアーティストの「オリジン」であるアクター(例:「廻花」のシルエットの向こう側にいる生身の人間)
- 現実+非−肉:VTuber/バーチャルアーティストのアバター(例:花譜の3Dモデル)
- 虚構+非−肉:仮想的なキャラクター(例:ソフトウェアのパッケージに描かれている可不、またはその3Dモデル)
「バーチャル」の美学とは、第三象限(アバター)と第四象限(キャラクター)の緊張関係の中に浮かび上がる、死、冷たさ、機械、永遠性といったイメージへの憧れを基調とする美学である。この美学をインストールした上でなら、VTuberの配信活動を「死後に向けたアーカイブを作成している」と見なすことも可能になるはずだ。
どんなに生きた人間によって送り出され、生きた人間によって受け取られる配信でも、観測者を失った人類絶滅後の未来には、単なる電子的なデータになる。「推しは推したい時に推せ」というフレーズに抵抗する、死後からの眼差し……そうした視座を持てるか否かということは、まさに美学の問題に他ならないだろう。
批評とは対象に仮想的な「死」を与える営みだと先に述べたが、その際、批評を行う主体もまた「死者」としての視点を持たなければならないということだ。V.W.PとV.I.Pによる楽曲「機械の声」の歌唱は、この美学がひとつの芸術表現として結晶化したものだった。これを実現したVTuber/バーチャルアーティストの歌声のソフトウェア化と、その「同位体」という意味づけ(=第一象限と第四象限の具象化)は未だ他に類を見ない試みであり、この一点において、KAMITSUBAKI STUDIOの活動は第二象限(アクター)と第三象限(アバター)の関係でのみ語られがちなVTuberという文化現象に対する、優れた批評性を備えていると評価できる。
そして、「バーチャル」の美学をインストールするということは、「オリジン」の人格を無碍にするということを即座には意味しない。というより、「バーチャル」の美学を抱えて生きる主体こそ、そのような短絡をしてはならないと常に自戒し続けなければならないのだ。自らも「肉」の檻からは決して逃れられないことを受け止めつつ、ままならない「肉」の重みへの抵抗感を自覚し続けること。そうしたアンビバレンスを抱え続けることは、批評という行為を可能にする倫理的条件でもある。
バーチャルカルチャーとは、「生」と「死」、「肉」と「非−肉」という、人間にとって根源的な二項対立の狭間を揺れ動きながら育まれる文化である。その意味において、老若男女の別を問わず、誰にとっても他人事ではない。
そのただ中に身を置き、芽生えた内なる違和感を言葉にしようと試みることは、現代を覆う「生=現在」への総駆り立て体制に対する抵抗と言え、本当の意味でその外部に踏み出すための準備ともなるはずだ。