「言葉の危機」とAIによる空間モデルの変容──あるいは「芸術」と「流通」の分離について
北出栞
「(芸術作品を)作る」という行為が「物理的な素材」の操作を意味するという考えは、なかなか拭い去りがたいものである。しかし、組み立てられ、削られることでひとつのまとまりを生むという意味では、言葉もまた「素材」である。一方で言うまでもなく、言葉はコミュニケーションツールでもある。こちらの側面を取り巻く状況は、ソーシャルメディアやAI(大規模言語モデル)といったテクノロジーによって、日々組み換えられ続けている。
本稿では、福尾匠、蓮實重彥、千葉雅也、布施琳太郎の議論を参照しながら「コミュニケーションツールとしての言語」という視点から「言語芸術」を切り離し、後者のあるべき姿について考えていく。導きの糸となるのは、印刷物・ネットワーク・AIと移り変わってきた言葉の流通経路と、それぞれの依拠する空間モデルの違いである。
「創造の領分」と言語芸術の位置
福尾匠はその著作『非美学──ジル・ドゥルーズの言葉と物』において、ドゥルーズのテクストに依拠しながら、「普遍的創造」のようなメタ的な領域を想定することなく、哲学・芸術・科学といった諸実践を、それぞれ異なる「創造の領分」として区別すべきだと述べている。
「普遍的創造」という観念ほどわれわれを実践から遠ざけるものはないだろう。創造が普遍的であればそれに取り組む意味など最初からないのであり、それは実践から降りる口実にしかならないだろう。神による万物の創造を万物の自己創造に取り替えても何も変わらないし、「誰もがクリエイターだ」という言葉は、メガプラットフォームと広告による二重の搾取を覆い隠す方便であるということを、われわれは嫌というほど思い知らされてきた。[1]
しかし、『非美学』(の元となった博士論文)と並行して書かれたテクストを集めた『ひとごと──クリティカル・エッセイズ』に収められた批評文の数々を読んでもわかる通り、福尾が思索・執筆の対象としてきたのはもっぱら、インスタレーションと呼ばれる「実空間に物を配置する」実践である。したがって彼が「哲学」との分離を促す「芸術」も、そのバイアスを潜り抜けた概念であることには留意しなければならない[2]。
「物」を中心とした芸術観と、それに対して哲学や批評を「言語的な創造行為」として置く(その上で、両者の領分を確定する)図式の中には、物理的な基盤を持たない、言葉という素材の組み合わせが芸術性を持つジャンル──すなわち小説や詩といった言語芸術を位置づけることができない。哲学や批評のテクストに否応なしに宿る芸術性についても、言うに及ばずである。
森脇透青との対話[3]において福尾自身も認めているが、福尾のプログラムにとって言語芸術とは、そこを突かれると全身が頽(くずお)れてしまいかねない「アキレス腱」なのである。
[1]福尾匠『非美学──ジル・ドゥルーズの言葉と物』(河出書房新社、2024年)
[2]インスタレーションアートとの関係において東浩紀のサイバースペース論を再検討した「ポシブル、パサブル──ある空間とその言葉」がその理論的な中心をなす著作として代表的。なお、福尾のインスタレーションアートへの強い関心を示す記事として、同書には収録されていないものに以下がある。
「IUIピックアップVOL.7 研究と批評 福尾 匠 インタビュー」(横浜国立大学大学院 都市イノベーション学府・研究院)
https://www.urban.ynu.ac.jp/iui-pickup/yb-2018-2019-fukuo/index.html
「映像、テキスト、水、構造物──重層的な空間がおりなす体験とは。福尾匠評 大岩雄典「スローアクター」展」(美術手帖)
https://bijutsutecho.com/magazine/review/19656
「いてもいなくてもよくなることについて:中森弘樹・福尾匠・黒嵜想鼎談」(「ひるにおきるさる」note)
https://note.com/kurosoo/n/n25f57e2346e5
[3]二人の対話を収めた動画はこちら(該当箇所頭出し済)。なお、森脇はここで指摘している『非美学』の「理論的問題点」について、『表象』19号(表象文化論学会、2025年)に収録の「非美学イデオロギー──福尾匠『非美学』書評」で詳述しているとのことである(本記事の公開時点で一般流通前のため、筆者未読)。
「流通」をめぐる思弁──「紙」から「ネットワーク」、そして「置き配」へ
言葉の意味は、「どういった経路を辿るか」「どんなコンテナに載せられるか」といった、メディアのインフラ的構造によって規定される側面を持つ。蓮實重彥は「印刷物」という表層を思考の条件として捉え、それが「紙」という物質に定着して流通することの社会的な「制度」を問題にした。
人々は、現在、自分が捕えられている世界を、「印刷物」の氾濫する空間だとあっさり信じてしまう。現代を活字文化から映像文化への危機的な変動期だと断言する無邪気な魂たちのまわりにも、動く「印刷物」たるテレヴィジョンの横長の画面が、たぶん「壁」にとっては不本意な装飾的な突出部として、ことのほか珍重されているのだから、「印刷物」の洪水はとどまることを知らない、と彼らは考える。〔…〕だが問題は、それが書籍であれテレヴィジョンであれ、現代の知的頽廃を「印刷物」の氾濫と結びつける思考そのものにあるのだ。洪水としてあたりに溢れているという「印刷物」にとって、「紙」がまるで空気のような環境に似て、無限に存在するかのように議論が進展してしまう事態に誰もこだわりを持とうとしない点が、いかにも不気味であるのだ。「紙」が無尽蔵な資源でも遍在的な環境でもなく、その生産量も、交換の形態も、流通の過程も、配分の方式をも厳密に統御しうる「制度」の中でのみはじめて「紙」として機能しうるというきわめて具体的な現実。[1]
その後、「紙」に代わって言葉の流通を担うようになったのは、ソーシャルメディアをはじめとする非物質的なネットワークである。千葉雅也は、現代のメディア環境において言葉の流通は接続と断絶の絶えざる明滅、すなわち情報インフラの不安定さによって(逆説的に)規定されると論じた。
「大きな非物語」としてのデータベースは、理念的な「物自体」のように想定される限りにおいて、大きな家でありうるだろう。けれども、〔…〕情報ネットワークのインフラはいたるところで途切れているし、アクセスの集中や様々なトラブルによってサーバーは「落ちる」。インターフェイスによって可視化される情報はつねに部分的でしかなく、膨大な検索結果やTwitterの履歴を辿ろうとしても私たちは疲れてしまう。あるいは、検索するべきキーワードを忘却する……。それが現実であり、それ以上の理念的な現実はないのだと、存在論的にそう考えてみるのである。
(中略)
私たちは、常時接続している最中において、なんらか複数のしかたで常時切断されている。図書館の時代と比べて、高度情報化の時代は、知の流通を加速させると同時に、知と非知、接続と切断の明滅をますます加速させるのであり、その明滅のリズムによって歴史のcorpus(筆者註:「データベース」の言い換え)をいっそう多孔的に塑形するのである。[2]
物質的基盤を介さない言葉の伝達は、断片的アクセス、検索、忘却といった、リズムに依存する知覚体験として再編成される。そこでは「書く」という行為も、より大きな文脈への接続を目指すものではなく、繰り返される切断と再接続の境界に言葉を「置く」行為として再定義されることになる。
福尾は、そんな現代について「置き配的コミュニケーション」の全面化した時代だと指摘する。ブログ記事や「ポスト」という単位によって、言葉をパッケージングすること自体は誰にでも容易になっている。商品の「置き配」を可能にするRFIDのように、「アカウントID」に紐づくソーシャルメディアが前提となった言葉の流通空間においては、記事や「ポスト」はその意味を開封されないまま、それを書いた人物の属性や立場といったメタデータばかりが共有されていく。
空間はいるべき場所といてはいけない場所に分割され、物はドアの前に置かれ、飲食店からはサービスが消失し店舗はイートイン・スペースつきの工場と区別がつかない。
そしてわれわれは言葉を、何かを「伝える」ためでなく、言われたことのメタカテゴリーを奪取・占有するために用い、それをハッシュタグにまで圧縮することを政治的言論だと思っている。[3]
こうして言葉を「書く」という行為自体が、新しい意味を生み出すための行為ではなく、メタ情報の書き換え合戦に参入するための行為へとすり替わっていく。昨今さまざまな論者によって指摘される「批評の危機」とは、このような事態を指していると言えるだろう。
[1]蓮實重彥『表層批評宣言』(ちくま文庫、1985年)
[2]千葉雅也「インフラクリティーク序説──ドゥルーズ『意味の論理学』からポスト人文学へ」、『思想地図β vol.1』(コンテクチュアズ、2010年)
[3]福尾匠「連載「言葉と物」第5回:フーコーとドゥルーズの「言葉と物」/青森で石を砂にした話」、『群像』2023年11月号(講談社、2023年)
「記号」から「ベクトル」へ──AIによる意味生成
蓮實・千葉・福尾の問題意識は、言葉を「書く」者として言葉の「流通」の条件を見つめた、きわめて真摯な問いである。しかし「流通」というトピックへの画一的な焦点化は「今は長い文章の読まれない時代だから、YouTubeもやったほうがいい」的な、土木工事的な議論に着地するのが関の山とも言える(ちなみに、千葉と福尾の論考がともに参照する東浩紀は、動画プラットフォーム「シラス」を立ち上げるなど「土木工事」を有言実行している唯一の理論家であると言えよう)。
そしてこの問いの最突端に位置する福尾は、先述の通り「芸術」を「実空間に物を配置する」実践として捉えている。だからこそ彼は「置き配」というメタファーを選び、言葉の役割を「文章の構成要素」と「メタデータ」に分けた上で、「芸術=物を配置する創造行為」と「哲学=言葉を配置する創造行為」とを区別すべきという議論を展開するのである。
ここで、福尾のプログラムでは言語そのものの芸術性を捉えきれないのではないかという当初の問題意識は、そもそも言語芸術とは「言葉を配置する創造行為」なのかという問いへと言い換えることができるだろう。いみじくも、そのような問いを別角度から投げかける新たなテクノロジーが存在する。実空間に対するオルタナティブな空間モデルを提示する、AI(大規模言語モデル)である。
AIは、言葉を単なる記号としてではなく、その使用される文脈に応じた高次元空間上のベクトルとして理解する。たとえば「とり」という二文字は、「とりがとんだ(鳥が飛んだ)」と「すいかとりんご(スイカとリンゴ)」のように、文脈によって異なる意味を生起する。AIはこうした例を膨大に学習し、それぞれの文脈が意味する距離と向きの関係(=ベクトル)を計算する。
このとき言葉は、あらかじめ特定の意味に紐づけられた記号ではなく、文脈に応じて意味が変化するベクトル的実体となる。AIにとっての言語とは、記号として読むものではなく、空間上における関係性の対象であり、配置され、方向づけられ、常に流動的に意味が再構築されるものである。
かつて言語は、ツリー構造や階層的辞書といった静的な構造で整理されていた。だがAI時代においては、言葉の意味は高次元空間におけるベクトル間の関係として再構築される。意味は階層構造ではなく、距離と向きという動的な関係によって決定されるのだ。
さらにこの空間は、音声・画像・映像など他の情報と統合されるマルチモーダル(共感覚的)なベクトル空間でもある。言葉はもはや閉じたデータベースの項目ではなく、他のモダリティと結びつきながら流動的に変化する素材として再定義されるのだ。ベクトルという形式の導入により、言葉はパッケージに依存しない新たな情報流通の形を獲得したとも言えるだろう。
AI時代の「書く」こと──インターフェースとしての言語芸術
AI時代において「書く」ことは単にメッセージを届ける行為ではなく、空間にベクトル(距離と向き)を発生させ、情報の関係性を設計する行為となる。このことについて、アーティストとしてインスタレーションをはじめとした「物」を操作する制作を行いながら、詩や批評も執筆する布施琳太郎は以下のように述べる。
ベクトルによって表現された空間をコンピュータで扱えるようになった時代に、作品というものはオブジェクトのままでいいんだろうか、みたいなことを僕は考えるんです。僕がラブレターなどのコミュニケーションに興味があるのは、作品というのもある種のプロンプトのように、人と人との間にある言葉を、つまりあるひとつのベクトルを呼び出すものにすぎなくなっていくんじゃないかという感覚があるからで。[1]
布施が注目する「ラブレター」は、「二人きりの間で言葉を送り合う形式」としてまとめることができる。ソーシャルメディアでは、言葉は常に匿名の監視下に置かれ、また誰にでも開かれているがゆえに、「誰か」に届く言葉が不可能になり、即座に「みんな」に繋げられていく。ラブレターはそうした過剰な接続性のなかで、閉じた文脈と関係性を設計する行為として再評価される。
ラブレターの書き方を考える第一の理由は、ソーシャルメディアが浸透した社会において「二人であることの孤独」を創出するためである。〔…〕ラブレターを書こうとし、実際に執筆して、そして勇気を出して送るのなら、そのときのあなたは「二人」という単位を経験することができるだろう。[2]
プロンプトがAIのベクトル空間に意味を生起させるように、ラブレターもまた、限定的な相手に向けて感情を発生させる装置である。これを敷衍すると現代において言葉を「書く」ということは、意味を呼び起こす装置=インターフェースを設計する行為と再定義できる。
千葉の「小説」や福尾の「日記」も、前者が執筆用ソフトウェアの使い方を含む「書く」ことのメソッド化とセットで実践されている点、後者が自ら専用のサイトを立ち上げ私家版として物理媒体の制作も行った点をそれぞれ踏まえて、こうしたインターフェース設計の実践として評価することができるだろう。しかし、彼らの実践を「哲学者/批評家が哲学/批評だけでなく小説/日記も書いている」という言辞に包んで評価するのなら、それはまさに福尾が批判した、言葉を「パッケージ」のありようにおいて評価する態度に他ならない。
これを回避するには、たとえば批評を書くときと小説や日記を書くときとで抽象的なワードの割合をどのくらい変えているかとか、改行の回数をどのくらい変えているかとか、あるいはそうした変化を実現するためにどのようなソフトウェアの操作を介しているのかとか、そういう言葉のデザイン作業的な側面についての言説が増える必要がある。それは書き手と読み手、双方に求められていることだろう。
[1]「生成AIと戦争の時代に、〈セカイ系〉は今なお有効な概念か?──北出栞『「世界の終わり」を紡ぐあなたへ』刊行記念イベント@DOMMUNE 第2部」(ferne web)
https://ferne-web.com/article/dommune-2/
[2]布施琳太郎『ラブレターの書き方』(晶文社、2023年)
「高次元空間」モデルで言葉を捉えるために
AI時代において、言葉は「記号」ではなく「ベクトル」として扱われるようになり、その意味は平面的な対応関係に基づく「データベース」によってではなく、「高次元空間」における相対的な位置関係によって捉えられるようになる。こうしたベクトル空間において、言葉は単なるメッセージの伝達媒体ではなく、音声・映像・画像など他の情報とも動的に相関する存在となる。
そのような時代において「書く」こととは、単なる意味の伝達行為ではなく、意味そのものが生成される場──すなわちインターフェースを設計する行為となる。人間から見た表現の形式が異なっていたとしても、AIの認識する高次元空間においては、根底にあるベクトル構造が共有されていれば、それらは同一の意味構造を持つものとして処理されるのである。
したがってこれからの時代の「書く」者は、たとえば動画メディアを活用するにしても、単に書いた文章の内容を音声や図表で説明することにとどまらず、その文章が持っていた意味の構造を各メディアの特性に応じた形で再構築できるよう、日頃から言葉をベクトル空間的にデザインする感覚を養うべきなのだ。このような言語観を踏まえれば、AIとの対話そのものが、言葉の意味を単なる記号の連なりとしてではなく、関係性の中で浮かび上がる構造として捉える訓練の場となることが理解できるだろう。
私たち人間は、AIのように高次元空間において思考することはできない。しかし、AIとの対話や複数のメディアで表現を試みる経験を通じてその構造に間接的にアクセスし、言葉がどのようにマルチモーダルに変換されるのか、想像してみることはできるのである。