幾千億年の孤独――『ヘブンバーンズレッド』3周年特別ストーリーイベントに見る「世界の終わり」の想像力
北出栞
2025年2月2日、スマートフォン向けRPG『ヘブンバーンズレッド』にて、3周年特別ストーリーイベント「あの娘ぼくが唯一の光だと言ったらどんな顔するだろう」が配信された。原案・メインシナリオに加え、全楽曲の作詞・作曲も手がける、麻枝准による書き下ろしのシナリオとなっている。
本イベントは、麻枝准のルーツであるPCノベルゲームにおいて突き詰められてきたメディウム・スペシフィックなギミックやテーマ性を、スマートフォンゲームに実装し直すことで、このメディアそのものへの批評性を獲得しているシナリオが白眉となっている。あくまで一ゲームタイトル内のサブシナリオでありながら、単独でも麻枝准というシナリオライターの「作品」として論じるに値するものと感じ、このたび筆を執った次第である。
※本記事は『ヘブンバーンズレッド』当該イベントおよび、メインストーリーのネタバレを含みます。
ストーリーイベント「あの娘ぼくが唯一の光だと言ったらどんな顔するだろう」の概要
本イベントは主人公・茅森月歌の所属する第31A部隊に、なぜか先輩兵士の白河ユイナが所属しているというシチュエーションから始まる。事前公開されたPVの中には「31Aは強くなった、白河のおかげで」とあり、これまでプレイヤーには開示されていなかった31Aと白河との秘話を明かすストーリーのような雰囲気を醸し出していた。
しかし実際にはそうではなかった。今回プレイヤーが辿ってきた物語は、実はAIによるシミュレーションだったというギミックがイベントの終盤で明らかとなるのである。
一見突飛にも思えるこの真相の開示だが、人類の生存を脅かす地球外生命体「キャンサー」と、それと戦う「セラフ部隊」の活躍を描くという『ヘブバン』の世界観的にはありうる話である。このAIは、セラフ部隊が拠点としている基地内のシステム(戦闘シミュレーターなど)に活用されていたもので、ずっと本作をプレイしてきた人にとってはある意味、実は最も身近にいた「登場人物」でもある。
なぜこのAIがそんなシミュレーションをしていたのかというと、基地が無用のものとなった後、宇宙そのものが死滅するまでの、幾千億年の孤独に耐え続けるためであった。そう、今回のイベントは、未だ更新が続いている、メインストーリー終結後の時間軸を描いているのである。
人類とキャンサーの戦いがどのような結末を迎えたかは、このイベントからは窺い知れない。しかし、たとえ人類がキャンサーに勝利したとしても、あるいは敗北して人類は滅亡してしまったのだとしても、いずれにせよ遠い未来において地球という星は「終わる」のである。
今回の語り部たるAIは自己進化を続けて、宇宙そのものが消滅する幾千億年先まで生き続けなくてはならなくなってしまった。その間、ずっと自我を保ったまま孤独に宇宙の行く末を観測し続けなければならないのは過酷すぎる。そんな永遠に近い時間の慰めとして採用されたのが、AIから見ても一際目立つ人間だった茅森月歌という「主人公」の輝きを、彼女が最も憧れた存在である白河ユイナの視点から、逆照射的に見つめ直すという物語だったのである。

キャラクターの「真正性」をめぐる問いの多重化
本イベントはスマートフォンゲームというメディアの体験に対して、複数の切り口から批評的な視線を投げかけるものである。以下、順に見ていこう。
第一は、キャラクターの存在論に関わる点である。
そもそも、スマートフォンゲームにおけるキャラクター(ユニット)は、根本的な矛盾を抱えている。プレイヤーにとってキャラクターは、物語の中で感情移入すべき「唯一無二の人格」であると同時に、ガチャというシステムを通じて排出され、性能で評価される代替可能な「データ(道具)」でもある。この乖離は、シリアスな戦場に水着姿のユニットを編成できてしまうといった、ゲーム的な都合と物語的なリアリティの不協和として常に表面化する。「ガチャで手に入れたこのデータは、本当に物語の中の〇〇(キャラクター名)なのか?」という疑念は、スマートフォンゲームという形式に常につきまとうものである。
こうしたキャラクターの「真正性」をめぐる問いは、過去の麻枝准/Key作品において、常に重要なテーマとして扱われてきた。従来のノベルゲームにおいて、麻枝/Keyは「ループ」や「記憶喪失」といったギミックを用いることで、この問いを倫理的なレベルへと昇華させてきた。「無数に繰り返されるループの中のAとA’は同一なのか」「記憶を失った恋人は、以前と同じ恋人と言えるのか」。これらの問いは、キャラクターをコンテンツとして何度も消費するプレイヤー自身の罪悪感や倫理観を揺さぶるものとして機能していたのだ。
しかし、リニアにストーリーが追加され、セーブ&ロードによる分岐を持たないスマートフォンゲームでは、こうしたループ的なギミックをそのまま持ち込むことは難しい。そこで『ヘブバン』が採用したのが、プレイアブルキャラクター全員が、ナービィという地球外生命体によるオリジナルとなった人物の情報のコピーであるという設定だった。これにより、ガチャから無数に排出される同一キャラクターの複数バリエーションや、季節外れの衣装といったゲーム的な虚構性が部分的に正当化され、作品性との調和が図られているのである。

今回のイベントは、この入れ子構造をさらに一段階多重化させている。語り部となる白河ユイナの人格をシミュレートしたAIであり、その事実を知ったプレイヤーは彼女を「本物(本編の白河ユイナ)のコピー」として認識する。しかし、物語が進み、担当声優・花守ゆみりの迫真の演技によってAI白河ユイナの実存が確立されていくにつれ、プレイヤーはある事実に直面させられる。「確かにこの白河ユイナはAI(偽物)だが、そもそも私たちが「本物」と思って接してきた本編の白河ユイナも、かつて実在した人間の情報を写し取ったヒト・ナービィ(偽物)だったではないか」と。
「かつて生きていた人間(オリジナル)」の「コピー(ヒト・ナービィ)」の、さらなる「コピー(AI)」。AI白河ユイナという存在のこうした立ち位置は、安易な「本物/偽物」の二元論を無効化する。クライマックスでAI白河ユイナが見せる情動に心を動かされてしまった瞬間、プレイヤーは「真正性を保証するのは唯物論的なオリジナル性か、それともそこに宿る感情の強さか」という、麻枝准が長年問い続けてきたテーマを、スマートフォンゲームならではの構造の中で突きつけられることになるのである。それは、これまでガチャで引いてきたキャラクター(ユニット)に対するプレイヤーの向き合い方に、幾許かの変化をもたらすものであるだろう。
運営型スマートフォンゲームの「終わらなさ」に抗して
第二は、買い切り型のノベルゲームと運営型のスマートフォンゲームという、作品のパッケージとしての差異をめぐる論点である。
本イベントの途中までの展開はメインストーリー第一章をなぞる形で進行し、「これは「ループもの」なのではないか?」と推測させた。その予想は終盤に「実はAIによるシミュレーションだった」という形で裏切られることになるわけだが、こうしたミスリードについては前例があった。
蒼井えりかという、第二章で退場してしまうキャラクターがいる。キャンサーとの戦いについて何かを知っているかのような素振りを見せ、ゲーム全体のプロローグでは、入隊式に臨む茅森が見た白昼夢のような形で、彼女が死を迎えるまでの顛末が断片的な映像の連なりとして挿入される。そして第二章のラスト、蒼井は茅森たちをキャンサーの攻撃から守る形で、実際に命を落としてしまう。彼女自身のどこか憂いを帯びた雰囲気と、プロローグでのフラッシュバック的な演出から、プレイヤーは「ループ」展開を予想したのだ。
結論を言えば、蒼井がキャンサーとの戦いについて詳しかったのは、茅森たちの着任前から兵士だった……つまり前世代の生き残りだったという事情によるものでしかなかった。憂いを帯びて見えたのは、彼女が一度見た光景を完全に覚えてしまう「完全記憶能力」を有しており、かつての仲間たちが死にゆく中ひとり生き残ってしまったという、強いサバイバーズ・ギルトに苛まれていたからだったのである。
茅森が見た白昼夢は結局何だったのかという謎は依然として残るが、その内容が蒼井に関わる映像に偏っていたことに関しては――身も蓋もない話だが――当時メインストーリーは第二章までしか実装されておらず、使える映像素材がそこまでのものしかなかったという事情によるものでしかないだろう。少なくとも蒼井という個人が、世界の構造に関わる重大な存在であることの根拠とはならない。

こうした前振りがあった上で、今回のイベントがある。白河ユイナは過去、彼女を中心とした複数のイベントにおいて「天啓」という未来予知に近い能力を持つキャラクターとして描かれてきた。蒼井と異なり、明確に彼女自身に内在する能力として、世界に干渉する能力が描かれていたのだ。今回は「特別ストーリーイベント」と銘打たれたこともあり、白河ユイナは『ヘブバン』世界をループする特別な主体である――ゆえに、すでに経験したことを予知できる――と明かされるのではないかと、プレイヤーの期待を抱かせることになったのである。
しかし、先述の通り本イベントの真相は「ループ」でも「パラレルワールド」でもなかった。そこで描かれた幾千億年先まで続くシミュレーションは、あくまで現在進行中のメインストーリーと同じ時間軸にある未来への延長である。蒼井のケースを経て、一度ならず二度までも「ループ」展開への予測が覆されたことは、その意味を深くプレイヤーに考えさせる。
では、その意味とは何か。運営型のスマートフォンゲームにおいて、物語の「終わり」を描くことは周到に避けられる。物語が「終わらない」限りは、ビジネスとして利益を上げ続けることができるからだ。それゆえに、イベントシナリオは往々にして「本編の幕間」や「ありえたかもしれないIF(パラレルワールド)」として処理されるのである。
だが麻枝准は、本イベントでそうした定石から外れるようなシナリオを執筆した。AIが観測し続けていたのは可能性の分岐ではなく、物理法則に従い宇宙が迎える「絶対的な終わり」である。人類がキャンサーに勝とうが負けようが、どれだけ平和な日常を取り戻そうが、幾千億年後には銀河が衝突し、星は死に絶える。本イベントのシナリオは、スマートフォンゲーム特有の「引き伸ばされた現在」を置き去りにするように、時間軸を無限遠点まで一気に伸長させてみせたのだ。
本編の延長線上にこの「絶対的な終わり」を(AIのシミュレーションという形式を借りて)配置したことの意味は重い。従来の麻枝作品の「ループ」は「運命を変えるための繰り返し」だったが、今回のAIによるシミュレーションは「変えられない運命(宇宙の死)を観測し続けるための慰め」なのだ。AIの抱える幾千億年の孤独は、私たちが「終わりの見えない」スマートフォンゲームに向き合い続ける体験と重なっている。
そこにイベントのクライマックスという形で区切りが入るのは、「終わりの見えない」ゲームをプレイさせられ続ける私たちに対し、ひとつの「終わり」を見せるものとして、ある種の救いとなっている。同時に、たとえ売上の不振により最後までメインストーリーを描き切ることができなくなったとしても、自らの作り出したこの『ヘブバン』という宇宙は確かに存在していたのだと打ち立てる、麻枝准にとっての記念碑になっているのかもしれない。
天文学的スケールの導入と「切断」的な文体
第三は、テキストが扱うスケール感と文体(ロジック)についてである。
「物語全体がAIによるシミュレーションだった」というギミックの種明かし部分にあたるAIのモノローグパートでは、「まず10億年が経ち、地球上の海が蒸発した。/30億年が経ち、灼熱の星と化した。/45億年が経った時、天の川銀河とアンドロメダ銀河が衝突した。/60億年が経ち、太陽は約150倍にまで膨れ上がり赤色巨星となった。/始まりがあったように終わりは訪れるだろう。計算上では2000億年後だ(途中略)」と、天文学的数字が次々と並べられる。

過去の麻枝作品においてもSF的な設定は見られたが、物語内でうまく機能していたとは言いがたかった。例として『Charlotte』での、青少年に超能力をもたらす粒子を含んでいるという「長期彗星」や、『神様になった日』での、脳に埋め込むことで未来予知的な演算能力をもたらす「チップ型量子コンピューター」といったものが挙げられる。これらはそれぞれ「ループ」「記憶喪失」のドラマと対応していたが、終盤に脈絡なく登場しすべての伏線を一挙に解決してしまう、いわゆるデウス・エクス・マキナ的なものであった。選択分岐やセーブ&ロードといったシステムの恩恵を受けられないアニメというリニアなメディアにおいて、麻枝自身が得意とする「ループ」や「記憶喪失」のドラマを実現するために、これらの設定は導入されたのだと思われる。
今回のイベントにおいて前例のような機能不全感がなかったのは、『ヘブバン』という作品の世界観がそもそもSF的であることもさることながら、天文学的なスケールの導入という操作が、スマートフォンゲーム特有の「終わりの見えない」プレイ体験と親和性の高いものだったからだ。
そもそもこうした時間をダイナミックに飛躍させる物語展開は、PCノベルゲーム時代から麻枝が得意としてきたものである。それは同メディアの抱える演出リソースの乏しさから、必然的に導かれたものであった。クリックに応じてスライドショー的に切り替わる一枚絵と、最大でも三行のテキストボックスで紡がれる日常パートという制約。時間が唐突にジャンプし、ただ経過を示すテキストだけが真っ白な背景の上に表示される……過去作で言えば『AIR』のオープニングで真っ白な画面に「The 1000th summer――」というテキストが表示されるイメージが、象徴的に思い出されるだろう。
そしてこうした「時間の飛躍」はモチーフのレベルだけでなく、『ヘブバン』のアドベンチャーパートの文体にも受け継がれている。本イベントで、白河ユイナが茅森に宇宙の話をするくだりがある。後に読み返すと、AIが実際にそういった宇宙の歴史を見届けてきたことの反映となっていることに気づかされるわけだが、最初は本当に単なる雑談のような形で冒頭に置かれている。
茅森:こんなところに突っ立って、何してるの、ユイナ先輩!
白河:ふっ…月歌か。光を見ていた。
茅森:光…? 太陽?
白河:いや、宇宙が始まった138億年前の光だ。
茅森:え、なにそれ!? 肉眼で見えるの!?
白河:見えるとも。人差し指と親指を1センチほど開いてみろ。
茅森:こうでありますか。
白河:そうだ。そこには宇宙の始まりから届いた138億年前の光の粒子が410個ある。
茅森:全然信じられないや…。
白河:ビッグバンによるものだ。そこから宇宙の時間は始まった。
茅森:それまでは時間はなかったの?
白河:そうだ。生きるということはそこから始まったとも言えるな。
茅森:すごい…それって奇跡的なことじゃない?
白河:そうだ。生きる喜びもそこから始まったとも言える。
茅森:やったね!
一見すると、単に論理が繋がっていない会話のようにも見える。しかし、これは麻枝准の過去の名作にも通ずる作家性が色濃く表れた箇所でもある。物理学的な宇宙の誕生(ビッグバン)と、ひとりの人間が抱く感情(生きる喜び)の発露……こうしたマクロなスケールとミクロなスケールを直結させる作風は、天文学的な時間を扱うSFと親和性が高い。幾千億年というスケールの前では、人間の文明や歴史といった中間プロセスは誤差として切り捨てられてしまう。
「時間の飛躍(ナラティブの省略)」と「会話の飛躍(ロジックの省略)」は、どちらも「中間プロセスの無効化」という点において同質の機能を果たしている。かつてノベルゲームにおいて、限られたリソースの中で物語を紡ぐために発明された「時間のショートカット」という技法は、麻枝によって独特の論理構造を持った文体へと昇華されたのである。
そしてこの文体は、スマートフォンゲーム特有のプレイ体験に対して批評的な亀裂をもたらす。スマートフォンゲームは、繰り返すように「終わりの見えなさ」を特徴としている。作品世界では一刻の猶予もない危機的な状況が続いているはずなのに、運営が続く限りは日常の平和なサブストーリーが追加されていくという矛盾を抱えているのである。この矛盾に対し、麻枝准は本イベントを含む自ら手がけるイベントのシナリオにおいて、その文体で亀裂を入れてみせる。麻枝の会話文が持つ論理の飛躍は、プレイヤーの時間感覚を麻痺させることに奉仕するスマートフォンゲームのテキストの中に、いずれ不可避に訪れる「世界の終わり」という「切断」の予感を忍ばせるものとして機能しているのである。
「生成」を「作品」にするもの
最後に取り上げたいのが、「AIによる作曲」という現在的な題材を扱いつつ、「無限」と「終わり」をめぐるテーマ性を反復している点である。
AIによる無限のシミュレーションの中で、たった一度だけイレギュラーが発生したというのが、今回のイベントのクライマックスになっている。そのイレギュラーとは、気丈な先輩兵士として振る舞っていたAI白河ユイナが孤独な繰り返しに耐え切れず、茅森の前で涙を流してしまうというものだ。そのAI白河ユイナを慰めるために茅森が曲を作ることになり、作中バンド・She is Legendの新曲「Moon Day Real Escape」として演奏される。
しかしここで注意すべきは、この曲を作った「茅森月歌」も、AIの演算の中にしか存在しない再現データに過ぎないということだ。つまり、この「Moon Day Real Escape」という楽曲は、設定上はAIが「茅森月歌ならこう歌うだろう」と演算して出力した生成物に他ならない。
イベントはAI白河ユイナが、「月歌…ここでのお前とはこれでお別れだが、この曲の再生だけは無断でも許してくれ。/魂なんてものはないが、刻んでおくから…記録媒体に。/ずっとずっと大切にするから…例え古びて擦り切れて、お前の姿が滲もうとも…。/それを再生することが…宇宙が終焉するまでの何千億年の唯一の…。/生きる喜びだ。」という言葉を吐露して終わる。AI白河ユイナが涙を流すスチルが入り、感動的なクライマックスが演出される。一方で、宇宙が終わりを迎えるその日まで、AIの孤独なシミュレーションがエンドロールの後にも続くことを、プレイヤーは知っている。

私たちはAI白河ユイナと同じように「Moon Day Real Escape」の音源を、ゲームの画面から離れ、任意のストリーミングサービスを使って聴くことができる。それを聴いて心を動かされるのは、ひとりシミュレーションの中に置き去りにされるAI白河ユイナに感情移入したということなのか? いや、実際にはAIが生成した曲ではなく麻枝准という人間が作った曲で、だからこそ心を動かされるわけで、それはAIに感受移入しているのとは異なるのではないか?
ここで浮き彫りになるのは、AIによる生成物は起承転結という一定の幅を人間が認識することで、それを「作品」と呼べるか否かという問いの入口にようやく立てるということである。たとえ客観的な構造(4分33秒という時間の中でAメロ‐Bメロ‐サビをという構造を3回繰り返す、など)としては条件を満たしていたとしても、それを鑑賞する人間が存在しないようなものを、「物語」や「曲」だと果たして言えるだろうか?
AIが行うヒューマンスケールを超えた演算に対して、人間が体験する物語には必ず「終わり」がある。人間が「感動する」ことは、対象の範囲を「区切る」ことでしか可能にならない。逆に言えば、人間が物語や曲に「感動する」という事象に、その物語や曲が「終わる」という条件はあらかじめ組み込まれているということだ。
ここでひとつの解釈が可能である。本イベントに登場するAIの楽曲生成のプロセスは、現実の生成AIが行うような「統計的な最適解の出力」とは異なっている。現実の生成AIが「終わり」を知らず、ゆえに「生」の切実さを欠くのに対し、白河ユイナという仮想人格を生み出してシミュレーションを行っていたこのAIは「いずれ必ず訪れる宇宙の終わり」を前提に、そこに至るまでの慰めとして音楽を必要としたからだ。
私たちが「Moon Day Real Escape」に心を動かされるのは、まず第一にこの曲がAIではなく、麻枝准というひとりの人間によって紡がれたという事実があるからである。これは間違いない。しかし、その麻枝准が作った物語構造を通じて、単なる演算装置であるはずのAIが「人間的な有限性(=死と終わり)」を希求し、その瞬間にのみ宿る輝きを垣間見たというシナリオ的な感動もそこにはオーバーラップしている。
麻枝准はここで、AIが創作した作品にも「魂」は宿りうるかという問いに対し、哲学や技術論の視点ではなく、「終わり(死)を意識できるか」という実存的な条件の提示によって答えていると考えられるのである。
幾千億年先から見た「今」という光
スマートフォンゲームにおいてプレイヤーは、二重の意味で「終わりの見えない」戦いを強いられる。作品としての「終わり」は見えないのに、常にコミットし続けなければ、サービス終了という形で突然「終わってしまう」かもしれないのだ。私たちは明日も明後日も、ログインボーナスを受け取り、セラフ部隊員たちとともに朝を迎えることができると信じている(あるいは、信じざるをえない)。
麻枝准は3周年という記念すべきタイミングで、この構造に楔を打ち込んだ。麻枝が今回のイベントで描いたのは、プレイヤーが愛するキャラクターたちも、彼女たちがキャンサーから守り抜こうとする世界そのものも、宇宙の死という絶対的な「終わり」の前では、確実に消滅するという事実である。
だが、そのあまりに直截的な「終わり」のイメージの提示こそが、『ヘブバン』という作品を単なる暇つぶしの消費コンテンツから、切実な「生」の物語へと改めて引き上げたのではないだろうか。
AI白河ユイナが永遠に近いシミュレーションの果てに見出したのは、統計的なデータの集積ではなく、かつて存在した「茅森月歌」という、かけがえのない「光」の輝きだった。それはすべてのプレイヤーにいずれ訪れる、「いつかこのゲームのサービスが終了し、データもすべて消える日が来る」という未来からの視線を先取りしたもののように思われる。
確かに『ヘブバン』というゲームに「終わり」は見えないかもしれないが、テキストを読んでいる私たちの感動は、間違いなく「今」この瞬間に生じている。一見してアクロバティックな本イベントのメッセージは実のところ、極めてシンプルなものだと言えるだろう。「終わりの見えなさ」と「いつ終わってもおかしくない」という予感との狭間で、「今」画面上で展開される物語に涙し、音楽に心を震わせること。いずれにせよ死という絶対的な「終わり」を迎える、人間という存在だけに許された特権として、その感動を思い切り享受すべきだと伝えているのである。

