幾千億年の孤独――『ヘブンバーンズレッド』3周年記念ストーリーイベントが照射する麻枝准の現在地
北出栞
スマートフォン向けRPG『ヘブンバーンズレッド』にて、3周年記念ストーリーイベント「あの娘ぼくが唯一の光だと言ったらどんな顔するだろう」が配信された。原案・メインシナリオに加え、全挿入歌の作詞・作曲をも手がける本作の核、麻枝准による書き下ろしのストーリーである。
今回のシナリオは、麻枝がデビューした30年ほど前からほとんど変化のないPC向けノベルゲームのシナリオライティングの技法を、スマホゲームという新しいメディウムにおいて再誕させ、また同じだけの時間突き詰められてきた主題を、日夜進歩する現代の最新テクノロジーとの接地面において意味付け直した。一ゲーム内のイベントでありながら、単体でも麻枝准というシナリオライターの「作品」として論じるに値するものと感じ、このたび筆を執った次第である。
※本記事は『ヘブンバーンズレッド』当該イベントおよび、メインストーリー第三章までのネタバレを含みます。
ストーリーの概要
物語は主人公・茅森月歌の所属する第31A部隊に、なぜか最初から先輩兵士の白河ユイナがいるという状態から始まる。事前公開されたPVの中には「31Aは強くなった、白河のおかげで」とあり、これまでプレイヤーには開示されていなかった秘話を明かすストーリーのような雰囲気を醸し出していた。
しかし実際にはそうではなかった。今回プレイヤーがたどってきた物語は、実はAIによるシミュレーションだったというギミックが終盤で明らかとなるのである。
AIというのは一見突飛なようだが、『ヘブバン』の世界観的にはありうる話だというのがポイントである。そのAIが何かというと、茅森たちが拠点としている基地内の戦闘シミュレーターなどに活用されているもので、ずっと本作をプレイしてきた人にとってはある意味、無意識に一番そばにいた「登場人物」でもある。
なぜAIがそんなシミュレーションをしていたのかというと、宇宙そのものが死滅するまでの数千億年の孤独に耐え続けるためであった。そう、今回のイベントは、未だ更新が続いている、メインストーリー終結後の時間軸を描いているのである。
人類と、本作における人類の敵である宇宙生命体・キャンサーの戦いがどんな結末を迎えたかはこのストーリーからは窺い知れない。しかし、たとえ人類がキャンサーに勝利したとしても、あるいは敗北して地球はキャンサーに侵食されてしまいましたという結末になったのだとしても、惑星スケールから見れば地球の寿命が尽きるとともにすべての生物は死滅するし、さらには銀河、宇宙そのものというスケールまで広げれば、地球の命さえも些末なことである。
しかし今回の語り部たるAIは自己進化を続けて、宇宙そのものが消滅する数千億年先まで生き続けなくてはならなくなってしまった。その間、ずっと自我を保ったまま狂うこともできず観測を続けなければならないのは過酷すぎる。そんな永劫の時を過ごす慰めとしてAIが採用したのが、AIから見ても一際目立つ人間だった茅森月歌という「主人公」の輝きを、彼女が最も憧れた存在である白河ユイナの視点から、逆照射的に見つめ直すという物語だったのである。

「キャラクターの真正性」というテーマの深化
以下、本イベントの評価すべきポイントを順に論じていく。
ひとつは、 本編で問い続けられている「キャラクターの真正性」というテーマを深化させている点だ。
『ヘブバン』には茅森をはじめとするメインキャラクター全員が、ナービィというスライム状の宇宙生命体がオリジナルの人間をコピーした存在だという設定がある。上述のテーマが生じるのはこの設定に拠るところが大きいのだが、そもそもなぜこうした設定が本作に必要とされたのかをまず考えたい。

麻枝は筆者が聞き手を務めたインタビューの中で、「自分は受け手の心に一生消えない傷を残すためにものを作っている。そうでなければ自分がものを作る意味などない」という旨のことを語っていた。麻枝作品にはループや記憶喪失といった展開が頻出するが、それもひとえにこの「傷を残す」という目的を達成するためであるだろう。
ループや記憶喪失は、ともに視点人物とその他の人間との間に情報の齟齬を発生させる。「記憶を失った人間は同じ人間と言えるのか」「第一ループと第二ループの同じ名前を持つ人間を、同一人物だと客観的に保証するものは何か」……こうした論点は、麻枝が従事するのがいわゆるオタクコンテンツ――キャラクターという存在を中心として、ビジネス的にもファンコミュニティ的にも活性化するジャンル――だからこそ、受け手にとって重大な問題となる。「AがAたる客観的な保証が失われても、AをAとして愛し続けられますか」という問いは、キャラクターを愛する者の心に深く傷を残すものだ。
またこうしたストーリー展開は、分岐やセーブ&ロードといったノベルゲームのシステムとも相性が良い。しかし麻枝自身の認識では「自分は文章力がないから、叙述トリックなどの小説的なテクニックを用いることができない。ゲームシステムがあるから、自分の文章力でもそれに近いことができるんだ」ということらしい。あくまで「傷」を受け手に残すこと、またそのために「キャラクターの真正性」を問題にすることが目的であって、ループや記憶喪失を描くこと自体が目的ではないのだ。
さて、ここでナービィである。運営型のスマホゲームは、順次ストーリーが追加されていく関係上、容易にループ展開を盛り込むことができない。かつガチャというシステムがある以上、キャラクターに息の長い愛着を持ってもらう必要がある。メインキャラクター=ガチャで獲得できるキャラクターがすべて「オリジナルのコピー」であるという設定は、スマホゲームのこうした制約条件から、「自分が好きだと思っているAは、“本当の”Aなのか?」という真正性に対する問いの発生源を、ループや記憶喪失といった外部要因でなく、キャラクターそのものに埋め込んだものだと考えられる。
今回のAIユイナの独白は担当声優(花守ゆみり)の迫真の演技も相まって、白河ユイナというキャラクター(と茅森月歌というキャラクターの関係)についての解釈を新たに押し広げるものにもなっている。当然それは「でも、これはAIによる「白河ユイナ」のコピーなんだよな」というメタ認知と不可分なのだが、そもそも本編の白河ユイナという存在が「ヒト・ナービィ」……つまり「本物の白河ユイナ」のコピーであり、そうしたメタ視点の正当性は直ちに宙吊りにされる。「キャラクターの真正性を保証するものは何か」という、本編でも執拗に問い続けられている問いを、さらに深化させるシナリオになっているのだ。
スマホゲームという制度への批判
二点目は、シナリオを通じてスマホゲームという制度への批判を行っていると取れる点だ。
シミュレーションによる繰り返しの描写は、ギミックが明かされていない時点のプレイヤーに「これは「ループもの」なのでは?」という予想を立てさせる。この「お約束」を裏切る構造に、スマホゲームという制度への批判を見て取ることができる。
今回のストーリーについて見ていく前に、こうした予想に対する裏切り=ミスリードについては、『ヘブバン』内で前例があったことにまず触れておく必要がある。
蒼井えりかという、第二章で退場してしまうキャラクターがいる。ゲーム全体の冒頭では、入隊式に臨む茅森が見た夢のような形で、「この先起きること」としての蒼井の死がフラッシュバック的にインサートされる。また、彼女は一度見たものを完璧に覚えてしまう完全記憶能力を持っていると設定されており、キャンサーとの戦いがどういうものであるかについて詳しい様子も見せる。

蒼井の記憶に関する能力と結末が先に開示されるという描写、ここからプレイヤーはループ展開が描かれることを予想した。第二章はリリース時点でのメインストーリーの最突端に位置する章で、蒼井は言わば最初のクライマックスにおけるヒロインだったから、『ヘブバン』の物語全体がループものなのではないか、という予想が――蒼井に助かってほしいという願望も込みで――プレイヤーの間で立てられたのである。
しかし蓋を開けてみれば、ゲーム冒頭のフラッシュバック的描写は倒叙法という、結末を最初に見せる叙述上のテクニックでしかなかった(ただし第五章前編で何の伏線もなく「過去への実体を伴った干渉」が描かれたことから、未来視的な設定によって説明される可能性は残されている)。また蒼井がキャンサーとの戦いに詳しいのも、単に兵士として茅森たちの先輩=前世代の生き残りであったということであり、完全記憶能力についても、それがむしろ足枷となって彼女をサバイバーズギルトに追い込んでいたというエピソードに繋げるものであった。プレイヤーに対して「傷」、つまり蒼井というキャラクターの「かけがえのなさ」をプレイヤーに刻むために、これらのテクニックや設定は用いられたと考えるべきだろう。
麻枝はプレイヤーによる「ループ説」の考察について、リリースから半年が経過した時点でのインタビューでわざわざ触れている。その説が完全に否定されたわけではないのだが、ループはあくまで傷を与えるための手段であるという普段の麻枝の立場からすれば、そういった考察がリリース直後の時点で活発になることに不本意さを覚えてもおかしくない。
しかし今回に限っては、麻枝自身が「ループものと見せかける」ミスリードを積極的に行ったのではないだろうか。
今回のイベントの中心である白河ユイナは、これまで「天啓」という未来予知のような謎の能力を持つキャラクターとして描かれてきた。麻枝のお気に入りキャラクターということもあって、基本的に彼女にスポットが当たるイベントについては麻枝自身がシナリオを執筆していることが明言されており、そのたびに少しずつ「天啓」についての設定が小出しにされている状況がある。
今回のイベントのPVに盛り込まれていた情報は、ついに「天啓」の詳細が明かされるんじゃないか、繰り返しを描いているということはループもので、未来予知もその恩恵だったんじゃないか……といった期待を抱かせるには十分なものだった。「物語全体が実はAIのシミュレーションでした」という展開を描くだけだったら、中心に据えるのは他のキャラクターでもいい。他でもない白河ユイナが中心のストーリーだからこそ、AIによるシミュレーションというギミックに対してミスリーディングが発生するのである。
スマホゲームはリニアに進行するメインストーリーという縦軸がある一方、イベントという軸も並行して走っていて、季節や衣装に対応したキャラクターのガチャを同時開催することで新規プレイヤーを呼び込む。これにより、本編の時間軸の歯抜けを埋めるような形でモザイク状にエピソードが追加されていく構造を持つ。今回のイベントも、新規プレイヤーが触れやすいように「メインストーリー第一章をクリアしていれば読める」仕様になっている。
イベントはメインストーリーの体験を邪魔しないように作られている。内容面でもキャラクターが命の危機に瀕することは少ないし、ショッキングなエピソードが描かれるにしても、本編が開始する以前の時系列の話であることが多い。ストーリーを読むことで得られるゲーム内アイテムのために機械的に読み飛ばすプレイヤーも多く、「安心」が求められる部分は大きい。
しかし、麻枝は「安心」に対して批判的な立場だ。筆者が担当したインタビューによれば、少なくとも麻枝自身が関わる物語に関しては、プレイヤーに「傷」を残せなければ世に出る意義がないとまで考えている節がある(最近まで他のライターが匿名で書いたものに麻枝がその基準で最終的な手を加える体制となっており、すべてのシナリオに対してそうするのはさすがに無理があると、一部のシナリオについては麻枝のリライトを経ずとも世に出せるよう工程が見直されたとのことだ)。
これまでの白河ユイナ関連のイベントとの結びつきを期待して読み進めていた終盤、物語全体が実はAIによるシミュレーションだったと明かされる体験は、イベントはメインストーリーから独立に別軸の物語を紡ぐものだという「安心」の隙を突くようなギミックと言える。こうした意味で麻枝による、スマホゲームという制度そのものへの批判とも解釈できるのである。
SF設定とノベルゲーム的語りの「形式と内容の一致」
三点目はSF的な超巨大スケールの設定を、ノベルゲーム的語りとの「形式と内容の一致」、つまり内的な必然性に基づいて用いている点である。
終盤のAIによる一人称語りのパートでは、「地球が消滅してから数十億年経った、天の川銀河とアンドロメダ銀河が衝突した、でも完全に宇宙が消滅するまでにはまだ数千億年ある……」のように、宇宙科学用語と天文学的数字が連打される。麻枝は「最近はSF小説ばかり読んでいる」とインタビューで語っており、その影響は確実にあるのだろうと思いつつ、しかし「ちょっとSFにかぶれてみました」のようなことにはなっていないのが評価したいポイントだ。

過去に「SFっぽさ」を取り入れた結果、無理のある設定となっていたものに『Charlotte』の彗星や、『神様になった日』の万能チップがある。これらの設定はそれぞれ「ループ」「記憶喪失」と関係していた。前段で述べたように、こうしたストーリー展開はそれを描くこと自体が目的ではなく「受け手の心に傷を残す」ための手段だったはずだが、選択分岐やセーブ&ロードといったシステムの恩恵を受けられないアニメにおいては手段と目的が入れ替わり、「SFっぽい」設定が展開の理由付けのために、多少無理をしてでも採用されたのだと思われる。
今回の宇宙科学用語や天文学的数字の使用にそうした違和感がなかったのは、『ヘブバン』のストーリーパートがノベルゲーム形式で表現されることに起因している。
そもそも「そして数千億年が経ち……」のような「時間をダイナミックに飛躍させる」物語展開自体が、日常パートがいきなり暗転して、目の前のキャラクターの立ち絵も消えて、時間の経過だけを示すテキストだけが真っ白な背景の上に表示されるような、ノベルゲームの演出技法から逆算的に導かれたものであるとも考えられる。麻枝の過去作で言えば『AIR』の「The 1000th summer――」というフレーズが真っ先に思い浮かぶことだろう。
1000というのも大きい数字ではあったが、今回はそれを遥かに超える単位を扱っている。『ヘブバン』の企画には、麻枝の所属するビジュアルアーツ社の要請でバトルもののスマホゲームを作らなければならないという命題があり、そこからSFというジャンルが逆算的に導かれたという経緯がある。こうした制約が先にあり、麻枝が得意とする「時間のダイナミックな飛躍」を描こうとなったときに、天文学的な数字が必要とされたという順序になっている。メディウムとジャンルの制約に伴う内的な必然性があった上で、科学的な記述がなされているのだ。
ノベルゲーム的語りと「時間の飛躍」の相性の良さは、麻枝の書くテキストの文体にも流れ込んでいる。白河ユイナが茅森に宇宙の話をするくだりがある。後でAIが実際にそういう歴史を見届けてきたという話になるわけだが、最初は本当に単なる小話の体で冒頭に出てくる。
茅森:こんなところに突っ立って、何してるの、ユイナ先輩!
白河:ふっ…月歌か。光を見ていた。
茅森:光…? 太陽?
白河:いや、宇宙が始まった138億年前の光だ。
茅森:え、なにそれ!? 肉眼で見えるの!?
白河:見えるとも。人差し指と親指を1センチほど開いてみろ。
茅森:こうでありますか。
白河:そうだ。そこには宇宙の始まりから届いた138億年前の光の粒子が410個ある。
茅森:全然信じられないや…。
白河:ビッグバンによるものだ。そこから宇宙の時間は始まった。
茅森:それまでは時間はなかったの?
白河:そうだ。生きるということはそこから始まったとも言えるな。
茅森:すごい…それって奇跡的なことじゃない?
白河:そうだ。生きる喜びもそこから始まったとも言える。
茅森:やったね!
随所に論理の飛躍を感じるテキストである。まず「宇宙の時間が始まる」と「生きることが始まる」。ここで言われているのは物理学上の話なわけで、「時間」は客観的な計測概念として話されているはずなのだが、そこに「生きる」という実存にも関わってくるワードがいきなり接続されている。
そこからさらに飛躍していく。「奇跡」というスピリチュアルなワードが出てくるのだ。そして「奇跡」と「生きる喜び」が結ばれる。喜びというのは喜怒哀楽というぐらいで、数ある感情のひとつでしかない。ある人が選挙で当選して喜ぶ人もいれば悲しむ人もいるように、客観的な事実に対して非対称的に発生するのが感情というものだ。少なくとも「生命の発生は奇跡である」と同じ意味合いで、「喜びという感情が生まれるのは奇跡である」とまでは言えないだろう。その後の「やったね!」、これもまた唐突である。
こうした麻枝の文体を、稚拙なものとして指摘したいわけではない。「会話として成立していなさそうなのだが、成立している」この文体を、独特のポエジーを備えた、とても魅力的な文体だと私は感じる。テキストボックスに最大3行程度しか表示できないというインターフェース上の制約や、余白を視覚効果で補うことができるがゆえのダイナミックな論理の飛躍、クリックによるインタラクティブ性が生み出すリズムといったノベルゲームならではの読書体験に最適化された、「形式と内容の一致」を体現する文体として評価したいのだ。
麻枝にインタビューで「テキストそれ自体による表現欲求はないんですか?」と聞いたときには、「ない。物語を伝えるにはテキストというメディアが都合が良いから、苦手だけど仕方なくやっている」という旨の答えが返ってきた。その言葉を額面通り受け取るならば、ノベルゲームを作ってきた生理に忠実にテキストを書くと、麻枝本人の意思とは関係なくこうした文体が出力されてしまうということになる。
こうした文体には、それが発表されるメディウムや表示を制御するスクリプト(プログラム)、ユーザー体験をデザインするインターフェースといった、これまで不可視化されてきた「デジタルテクノロジーに規定される文体論」を切り拓く可能性が眠っている。今後も研究を進めていきたいところだ。
生成AI時代における「作品」の意味
そして最後に触れたいのが、「生成AI時代における「作品」とは何か」という今日的なテーマに迫っている点である。
AIによる無限とも言える繰り返しの中で、たった一回イレギュラーが発生したというのが、今回のイベントのクライマックスになっている。そのイレギュラーとは、気丈な先輩兵士として振る舞っていたAIユイナが孤独な繰り返しに耐え切れず、茅森の前で泣いてしまうというものだ。その泣いてしまった白河ユイナ、AIが没入している白河ユイナのために茅森が曲を作ってくれることになり、作中バンドShe is Legendの新曲「Moon Day Real Escape」として演奏される。
しかしここでいう茅森というのも、よく考えればAIによるシミュレーションの一部である。したがってその楽曲も、AI自身によって作られたものなのである。
ここで思い出されるのが、AIにとって音楽の生成は、画像の生成に比べて難しいという話である。理由はAIが時間的な構造を作るのが苦手だからで、たとえばBGMとしての用途が明確な、短いループを延々と繰り返すアノニマスなビートミュージック……いわゆるローファイ・ヒップホップのようなジャンルだったら機能するものを作ることが比較的容易だが、3~5分ほどの時間的な幅があり、その中に心を揺さぶる展開があり、「誰が」歌っているかというのが受け手にとって重要な……すなわちポップミュージックを作ることは難しいのである。
誰でもChatGPTやMidjourneyなどの大規模言語モデルに気軽に触れるようになったことで、「AIには実際このぐらいのこともできるんだ」というアベレージが変わり、AIの登場するストーリーがそれまでより遥かに日常に近いものとして受け入れられるようになった。しかしそれゆえに、「シミュレーションの中で、茅森が白河ユイナのために曲を作った」という今回の物語が、現実を超えていることもまたプレイヤーにとって明らかである。実際、この曲はAIではなく、麻枝准という人間によって作られているのだ。
ストーリーはAIユイナが、この曲をよすがとして繰り返し聴いて孤独の慰めとするよ、今回のシミュレーションは終わりだけど、そのデータ自体は記憶エリアに保存してまた何回も聴くよ、といった言葉を吐露して終わる。AIユイナが涙を流すスチルが入り、感動的なクライマックスが演出される。一方で、数千億年の永劫のシミュレーションがエンドマークの後に続くことも、読者にとってはわかりきっている。

私たちはAIユイナと同じように「Moon Day Real Escape」をストリーミングサービスなどで聴くことができる。それを聴いて心を動かされるのは、AIユイナの気持ちに共感したということになるのか? いや、実際にはAIが生成した曲ではなく麻枝准という人間が作った曲で、だからこそ心を動かされるわけで、それはAIの経験とは異なるのではないか?
こうした葛藤の中で浮き彫りになるのは、「物語」にしても「曲」にしても、「作品」はエンドマークが打たれることによって「作品」になるのだという、「作品」が内包するトートロジックな論理である。「物語」も「曲」も、起承転結という一定の幅を人間が認識することで、「作品」として完結する。たとえ構造的にはその条件を満たしていたとしても、人類の一切が消滅しても永遠に生成され続けるようなものを、「物語」や「曲」だと果たして言えるだろうか?
AIが行うヒューマンスケールを超えた演算に対して、人間が体験する物語には必ず「終わり」がある。人間が「感動する」ことは、対象の範囲を「区切る」ことでしか可能にならない。逆に言えば、人間が物語や曲に「感動する」という事象に、その物語や曲が「終わる」という条件はあらかじめ組み込まれている。
このストーリーは、「生成AI時代における物語とは何か」という人間の側から立てられがちなテーマを、語り部および物語そのものがAIによる無限回のシミュレーションの一部だったというギミックを通じて、人間の側からではなく、AIの側から考えさせるようなことを行っている。それは同時に、麻枝が約30年の間探求し続けてきた、プレイヤーの立ち位置を操作することによって衝撃を与えることであったり、3分から5分の「区切り」の中でどう展開を作るかという「(ポップミュージックの)作曲」という営みであったりの意味を、自己言及的に問い直している。
麻枝准はずっと変わらない技法を用いて、ずっと変わらない主題を突き詰め続けている。しかしそれらが変わらないからこそ、キャラクターを中心するコンテンツの供給媒体がPC向けノベルゲームからスマホゲームに移ったとか、生成AIの発展が急速に進んだとかいった外部の状況変化と掛け合わさったときに、きちんとアクチュアルなものが出力されてくる。
平たい言い方をすれば、麻枝准が作るものには「変わらないがゆえの新しさ」がずっとある。そのことを改めて感じさせてくれた今回のストーリーだった。