GoHandsの機械的メディア美学――『ハンドシェイカー』から『もめんたりー・リリィ』へ
北出栞
この力は……この世界は……
ハンドシェイカーって何なんだよ!
――『ハンドシェイカー』#1「Conductor to Contact」より
目まぐるしく動くカメラワーク、魚眼レンズを介したかのように歪んだ空間、画面をところ狭しと舞うパーティクル、過剰にぎらついた色彩……おそらく未来において起こるのであろう、戦闘シーンの断片のカットアップに被さるように発せられる上記のモノローグは、その作品を観ている私たち視聴者の心情を代弁してくれているかのようだ。
『ハンドシェイカー』は2017年1月~3月に放送された、アニメーションスタジオ・GoHandsによるオリジナルアニメ作品である。スタッフのコメントによれば「今アニメ制作に出来る技術を出来る限り取り入れるという気持ちで作った」[1]とのことだが、そうして取り入れられた無数の技術=テクノロジーがストーリーや世界観を透明に伝えるメディウムとしての役割を果たさず、ただただ異物感を与えるものとして前景化している印象を一見して受ける。
しかし、だからといって不出来な作品と簡単に断ずるには惜しい固有の魅力が、この作品には宿っている気がしてならないのだ。本稿は、そんな『ハンドシェイカー』の映像表現の特異さを正面から受け止めつつ、それに「音楽」という補助線を与えることで一定の秩序を見出し、ひいては本作を生み出したGoHandsというスタジオに特有の美学を解き明かさんとするものである。
[1]アニメ「ハンドシェイカー」公式(@hs_p_info)より、2017年2月22日の投稿。
https://twitter.com/hs_p_info/status/834055092902834176
「機械」と「情動」のあいだで
まずは物語の内容を概観しておこう。本作は「ハンドシェイカー」と呼ばれる二人一組のペアがそれぞれの「願い」を賭けて戦うという、いわゆる「バトルロイヤルもの」である。戦いの果て、勝ち抜いたハンドシェイカーは「神」に謁見する権利を得るとされるが、「神」とは一体どんな存在なのか、そもそもハンドシェイカーとは何なのかといった謎は、本編では一切明かされない。また「20XX年のOSAKA」が舞台となっており、現実の大阪をトレースした風景の中で展開する日常シーンと、非日常的な戦闘シーンを交互に描く形で進行する。
取り急ぎ、押さえておきたい設定が二つある。一点目はハンドシェイカーの戦闘が行われるのが「ジグラート」という、プロジェクションマッピングのように現実に覆い被さる形で出現する、ハンドシェイカーにしか入ることができないと設定されている空間であることだ。これにより、本作の戦闘シーンは視聴者にとって、「見慣れた大阪の風景でありながら、無人」という絵面となる。

そして、二点目はハンドシェイカーたちが戦闘に「ニムロデ」という武器を用いるということである。これは各ハンドシェイカーの深層心理が形になったものとされ、一人ひとり形状が異なる。ハンドシェイカーはその名の通り、パートナーと手を握り合うことでニムロデのパワーを回復/増幅することができ、二人の心理状態がシンクロしているほどそのハンドシェイカーは強くなるとされている。ニムロデが破壊されれば戦闘は終了となり、敗れたペアはハンドシェイカーとしての力を失うが、敗北=死ということでは必ずしもない。
本作の映像は、手描きの作画とCGによる空間設計のハイブリッドとなっている。セルアニメーション的な、レイヤー間の差分が生み出す仮現運動――トーマス・ラマールが言うところの「アニメティズム」――だけでなく、3D空間に設置された仮想的なカメラが、縦横無尽に飛び回ることによっても運動が表現されるのだ。これにより「キャラクターではなく、キャラクターを追うカメラを見ている」とでも表現すべき特異なアクションシーンが生まれ、たとえば、カメラが地面の下に潜り込み、半透明になった地面の下からキャラクターを見上げるといった奇妙なアングルも画面上に頻出することになる。

本作において特筆すべきは、こうした仮想的なカメラの存在感が、日常パートにおいてもせり出している点である。キャラクターがただ室内で会話しているだけのシーンであっても、パノラマ視点に置かれた仮想的なカメラアイが横滑りするように画面を舐めていくし、主要人物が一切映っていない、モブキャラクターが通行するだけの都市の雑踏が、唐突に魚眼レンズ風に映し出されたりもする。

画面には映っていないはずのカメラの存在感が強調されるこうした映像表現は、飛び散る火花や室内を舞う埃のパーティクル表現や、物体の表面を滑るように移動する強い反射光表現と合わせて、アニメーション制作における「撮影」の工程を強く前景化させるものだ(周知の通り、デジタル時代における「撮影」とは作画の上に陰影や光のエフェクトを重ねる工程のことで、その名称は過去にはフィジカルな素材をスタンド上で重ね合わせてカメラで「撮影」していたことの名残である)。こうして整理すれば、本作の映像表現はマーベル・シネマティック・ユニバース作品など、VFXの恩恵を存分に受けた実写映画において指摘される「ポストシネマ」というパラダイムや、GoPro・ドローンなど撮影機材のイノベーションによってもたらされた「ポストカメラ」というパラダイムとも軌を一にするものとして理解することができるだろう。
デジタルテクノロジーが前景化した映像は、どこか非-人間的で「機械」的な印象を視聴者に与える。ここで注目に値するのが、主人公である高槻手綱(タヅナ)のニムロデが「歯車(ギア)」の形状をしているということだ。キャラクターの深層心理の顕現であるニムロデは、3DCGによって固有のオブジェクティブな存在感を持たされている。他のニムロデは剣や銃など定まった形状を持つが、タヅナのニムロデは無数の歯車の集合体であり、用途に応じてその姿を変えるのだ。刀剣、手甲、防御壁、移動手段……バトルの勝利=物語の転回点はタヅナがこのニムロデを戦局に応じて適切な姿に組み立てることができた――彼の口癖を借りれば「噛み合った」――瞬間にこそもたらされることになる。ニムロデという「機械」の動作が物語を駆動するのである。

また、本作のヒロインである芥川小代理(コヨリ)のキャラクター造形も見逃せない。物語の開始以前から長い昏睡状態に陥っていた彼女は、無数の医療機器に繋がれた状態で本編に登場する。タヅナが手を握る=パートナーとなったことで目覚めたコヨリは、当初は言葉を発することができず、表情の変化にも乏しいことからアンドロイドめいた印象を与える。先述したようにハンドシェイカーの強さとは二人の心理状態のシンクロ度合いに比例するから、二人が「ギア」を適切に組み立て戦いを勝ち抜いていくということは、「機械」的だったコヨリが「情動」を獲得していく過程だとパラフレーズすることができるだろう(事実、コヨリが言葉を発するのと、自らのニムロデを発現させるのは同時である)。
このように本作においては、「機械」と「情動」のあいだに生じるコンフリクトがひとつの基調をなしている。視聴を開始した当初はその「機械」的な画面に違和感を覚え、次第に慣れていくというその経験自体が、ストーリーの進行とシンクロしたものになっているのだ。
ミキシングという方法論
映像作品においてそれが「機械」的であるという修辞は、鑑賞者である私たち人間が「非-機械」である以上、基本的には物語への没入を阻害し、戸惑いを与えるものであることの謂いでしかないだろう。しかし、視覚からだけでなく、聴覚からの情報を分析要素に加えることで、その意味合いは変わってくる。結論を先取りすれば、本作のサウンドトラックはまさに「機械」と「情動」の狭間で揺れ動くものとして発展してきた、ある音楽ジャンルが選択されている。その使用法に目を向けることで、本作において聴覚情報こそが視覚情報を補完する形で、視聴者と物語とを情動的に結びつけるメディウムとなっていることが理解できるだろう。
『ハンドシェイカー』のサウンドトラックは、通常のアニメのサウンドトラックとは異なる成立工程を経ている。普通、アニメのサウンドトラックは監督サイドから劇伴作家に「悲しいシーン」「〇〇(キャラクター名)のテーマ曲」といったテキストベースの「メニュー表」が渡され、それに応じる形で作曲されていく。一方、本作では「音楽制作」にクレジットされている音楽レーベル・GOON TRAXからリリースされている既発の音源――つまり、アニメ用に書き下ろされた楽曲ではない――から選曲されるという形となっているのである。
GOON TRAXは2006年にKADOKAWA(当時は角川書店)傘下のメディアファクトリーにて、音楽プロデューサーの寿福知之によって立ち上げられた音楽レーベルである。寿福は2016年に独立し、株式会社FABTONEを設立。以降は同社が抱えるレーベルとして、GOON TRAXは存続している。代表作として知られるのは、2019年時点でシリーズ累計売上38万枚を超える[2]コンピレーション『IN YA MELLOW TONE』である。
GOON TRAXがコンセプトとして掲げるのは「日本人の心に響くHIP HOP」。このコンセプトについて寿福は以下のように語っている。
日本人が作れるヒップホップってこういうのだなって思ってるんですよね。普通に生活してる分にはそんなに不幸な事も訪れないし、生きるのにも困らない。そういったときに、じゃあもっと音楽的に色んな楽器の要素を入れて、普通に8小節ループのパートもあるけれどこれは打ち込みじゃなくて生楽器でやるからこんなに響くんだ、みたいな要素を沢山増やしていきたくなるっていうか。[3]
ヒップホップ・カルチャーの始まりには、人間とターンテーブルという「機械」との協働が欠かせなかった。その起源は、アメリカに渡ったジャマイカ移民たちがブロンクスで開催していたレイヴ・パーティにあるとされる。ヒップホップの四大要素として「DJ」「MC(ラップ)」「ブレイクダンス」「グラフィティ」が挙げられるが、その中で最も早くに出現したのがDJである。そのオリジネイターのひとりであるKool Hercは、フロアをより湧かせるために新たなターンテーブルの使用法を生み出した。Herc自身も序文を寄せている、ヒップホップ・カルチャーの通史的モノグラフとして名高い書物『ヒップホップ・ジェネレーション』から引用しよう。
ダンサーが最も盛り上がるのは、曲中の短いインストゥルメンタル・ブレイクだった。バンド全体の演奏はストップし、リズム・セクションだけがグルーヴを繰り出す。メロディ、コーラス、歌なんて二の次。一番大切なのはグルーヴだ。グルーヴで盛り上げて、その勢いを持続していくのである。ハークはレコードの核にあるループ、つまりブレイクに焦点を合わせた。〔…〕「メリーゴーラウンド」と彼が称したテクニックで、ハークは同じレコードを二枚使いした。一枚のレコードがブレイクを終えると、もう一枚のレコードでブレイクを始める。こうすることで、五秒のブレイクダウンが、五分も繰り返される、猛烈な即席ループ・ヴァージョンとなるのだ。[4]
世に言う「ブレイクビーツ」誕生の瞬間である。当初は二枚の同じレコードを用いて間奏部分を長く持続させるために生まれたこのテクニックは、やがて異なる複数の音源を滑らかに繋ぐテクニック「ミキシング」へと発展していく。
『ハンドシェイカー』で採用されている「既存の楽曲を繋ぎ合わせてシーンを演出する」という方法論が、こうしたDJカルチャーへの目配せを含んでいることは明らかだ。こうした制作方法において、監督をはじめとした映像スタッフに求められるのは、シーンの切れ目に応じてどのような楽曲が必要かを判断する能力よりもむしろ、手元にすでにある音源、つまり、固有の性質を持ったひとまとまりの時間的オブジェクトを組み合わせて、どのように意図したムードを作り出すかというDJ的なセンスだと言える。
[2]FABTONE Inc.公式サイト『IN YA MELLOW TONE 15』商品紹介ページより。
http://www.fabtone.co.jp/release/detail/id/195
[3]〈GOON TRAX〉10周年記念『IN YA MELLOW TONE』コンピのベスト・アルバムがリリース (OTOTOY)
https://ototoy.jp/feature/2016121500
[4]ジェフ・チャン著、押野素子訳『ヒップホップ・ジェネレーション――「スタイル」で世界を変えた若者たちの物語』(リットーミュージック、2007年)
ジャジー・ヒップホップ
では、GOON TRAXの音源に固有の性質とはいかなるものなのだろうか。寿福は先に発言を引用したインタビューの中で、「ジャジー・ヒップホップ」というジャンル名を引き合いに出しつつその音楽性を説明している。多くの音楽ジャンルがそうであるようにその定義には所説あるのだが、「ループトラックにジャズの生演奏をサンプリングしている」点、「ピアノ主体のメロウなメロディを持つ」点をひとまず特徴として挙げておこう。
ジャズとヒップホップの融合を推し進めた人物として、幾人かの名前を挙げることができる。1974年生まれ(2006年没)のトラックメイカー、J Dillaは、リズムマシンにおけるビートメイキングにおいて使われるクオンタイズという補正機能をあえて使わないことで独特の「ヨレた」ビートを生み出した。ターンテーブルからリズムマシンへと主な機材が移行してからも、本質的に「マシン・ミュージック」であったヒップホップに、人間味のあるグルーヴを取り入れようとしたのだ[5]。
また、同じ頃に登場した重要なプレイヤーがD’Angeloである。J Dillaと同年生まれ、ヒップホップ世代のR&Bアーティストである彼もまたマシン・ビートによる無機的なループ・ミュージックの影響を受けながら、生演奏による「ヨレた」ビートを志向した。「生演奏によるヒップホップ」のパイオニアたるグループThe Rootsのドラマー、Questloveは、同世代である彼らの手法に強い刺激を受けたという。
俺はこのままだと周りから「こいつはまともに叩けない」と言われるぞと感じていた。ドラムマシンのように正確に叩けるからリスペクトされてきたのに、奴(引用者注:D’Angeloのこと)ときたら俺が積み上げてきたそのジェンガを崩した上に、これまで以上に下手に叩けって頼んできやがった。だから、俺はただクリックから外れて叩くんじゃなくて、“ずれたドラミング” を自分の中にプログラムしなければならなかったのさ。[6]
彼らの発明した新しいビートは、宇多田ヒカルの作品にも参加するドラマー、Chris Daveをはじめとしてジャズの世界にも影響を与えている[7]。「人間味のあるヨレたマシン・ビート、を取り入れた人間の叩くビート」とテキストで読むと、「一周回って元に戻った」だけのようにも感じられるが、実際に音源を聴き比べてみれば、そこにある確かな差異を知覚できるはずだ。
GOON TRAXの送り出すジャジー・ヒップホップも、こうした探求と歩調を合わせるものである。「機械」的に反復されるループ・ミュージックとしての性質を持ちながらも、生演奏の身体性に強く依拠したそのグルーヴを意識することで、視聴者は様々なデジタル・オブジェクトが氾濫する「機械」的な映像の中になお存在する「情動」的な揺らぎを再発見することになるだろう。
また、視聴者の情動に働きかける要素として、メロディも重要である。そもそもジャジー・ヒップホップというジャンルがヒップホップのサブジャンルとして分岐したのは、先に引用したようにヒップホップの創世期において「二の次」とされてきたメロディの要素を、より際立たせたものだからと考えられる。
本作のサウンドトラックには、対決のクライマックスに流れる「Dust Trail」(acro jazz laboratories)や、コヨリが覚醒し、自身のニムロデを発現させる際に初めて流れる「Go With」(Hidetake Takayama)など、主人公サイドの勝利を確信させるカタルシスに満ちたメロディを持った楽曲がいくつか存在する。一方で、サウンドトラック全体の基調をなすピアノサウンドは、切なくメランコリックなものだ。日常曲と戦闘曲のBPMは異なるが、サウンドの質感は統一されているので、耳馴染みよく繋ぎ合わされる。
つまり、全体的に切なくメランコリックなトーンを維持したまま、純粋に速度感の変化によって、視聴者は情動をコントロールされるのである。この体験を通じて、視聴者はハンドシェイカーたちの戦いが本質的にメランコリックなものであること――「願い」を賭けた戦いに勝利するということは、敗北したペアの「願い」を踏みにじることでもある――を、物語の進行とともに実感していくはずだ。
[5]J DillaがどのようにMPC3000を使いこなしたかを解説するムービー(FNMNL)
https://fnmnl.tv/2017/12/09/43320
[6]インタビュー:QUESTLOVE(Red Bull Music Academy Japan)
http://www.redbullmusicacademy.jp/jp/?section=magazine/interview-questlove
[7]クリス・デイヴ&ザ・ドラムヘッズ特集 ~“ジャズ・ドラマー”としてのクリス・デイヴ&逆引き「ジャズ・ドラマー小辞典」(Billboard JAPAN)
http://www.billboard-japan.com/special/detail/2315
DJとビルドゥングス・ロマン
『ハンドシェイカー』には、10年後を舞台とした『W’z《ウィズ》』(以下『ウィズ』)という事実上の続編が存在する。2019年1月~3月に放送され、スタジオのGoHandsをはじめ、監督は鈴木信吾・金澤洪充、キャラクターデザインは内田孝行、メカニックデザインは大久保宏、脚本は八薙玉造と主要スタッフもほぼ同じであり、GOON TRAXも引き続き音楽制作にクレジットされている。
『ウィズ』の主人公である荒城幸也(ユキヤ)は、前作の主人公ペアの最終戦の相手となった男女ペアの実の息子という設定である。ハンドシェイカーの両親から生まれたユキヤは、コヨリと同じく「生まれながらのハンドシェイカー」であり、手を繋いだ誰とでもペアになれてしまうという特異体質を抱えている。
『ウィズ』はその体質ゆえに誰とも深く関わることを避けてきたユキヤが、ハンドシェイカーとしての戦いを通じて広がった人間関係の中で心を開いていく様を描いていく。ここで注目したいのが、ユキヤ自身がDJプレイを行う人物として設定されている点だ。当初のユキヤはDJプレイのネット配信を通じた自己表現でのみ、社会との繋がりを実感している人物として描写されている。監督の鈴木はインタビューで以下のように述べている。
個人の感覚ですが、自身が映像演出をする際に音楽のリズム隊(ドラムスやベース音)がしっかりしていて、上物(メロディー)の音数が少ない音源が映像に当てはめた際にしっくり来ると言う感覚を持っておりまして、演出家として求めたい感覚と、今回の主人公のユキヤ君がDJで演奏するとした際に音源として違和感のないジャンルでの制作を音楽家様、プロダクション様にはご相談させていただいた形になります。[8]
『ウィズ』では『ハンドシェイカー』とは異なり、すべての音源が本作のために新規に作られている。『ハンドシェイカー』では、既存の音源をDJミックス的に繋ぐ制作スタッフの嗜好性が前面に押し出されていた。インタビュー内で鈴木が語っているのは、『ウィズ』では制作スタッフの嗜好性は一歩引かせて、「ユキヤという人物が、彼の趣味嗜好にしたがって選曲するなら」を重要な基準として、そもそもの音源が作られていたということだ。
本作の企画には、おそらく前作で提示されつつも未消化に終わった世界観に関する謎を消化する狙いがあったが故に、主人公であるユキヤの出自が「生まれながらのハンドシェイカー」ということになっているし、彼の成長物語(ビルドゥングス・ロマン)というプロットが主軸に据えられている。そして、手法面においても、主人公が自らの進む道を「選択する」行為と、DJとして「選曲する」行為が重ね合わされる……つまり物語が「主」で音楽が「従」であるという明確なヒエラルキーが存在している。
『ハンドシェイカー』は確かに世界観にもキャラクター描写にも不明瞭な部分が大きく、伏線の回収も十分に行われなかった作品だった。しかし本稿で見てきたように、「機械」と「情動」のあいだの揺動という主題において映像と音楽が「噛み合う」ことで、プロット以上にドラマ性を語っていた作品でもあった。脚本的な「物語」ではなく、デジタルな素材=モノに語らせるアニメーション。GoHandsが『ハンドシェイカー』で提示した革新性は、『ウィズ』においてはプロットと伏線回収を重視する方針によって、減じてしまったようにも思われる。
[8]GoHands×鈴木信吾×金澤洪充が手がけるTVアニメ『W’z《ウィズ》』が放送開始! 両監督にインタビュー(PASH! PLUS)
http://www.pashplus.jp/interview/123255/
GoHandsの「文体」とその前衛性
この意味において、2025年1月より放送が始まったオリジナルアニメ『もめんたりー・リリィ』(以下『もめリリ』)をこそ、『ハンドシェイカー』の直接的な後継作品と位置づけたい。なおクレジットには若干の異同があり、鈴木信吾が総監督とキャラクターデザインを兼任、監督には工藤進、横峯克昌の二名がついている(メカニックデザインと脚本は『ハンドシェイカー』と同じく大久保宏、八薙玉造)。
物語は謎の機械の襲来により人間の一切が消え失せてしまった世界で、敵から奪った力を武器に変えた少女たちがサバイバルを行うというものである。戦う相手自体が機械であるということで、戦闘シーンはより苛烈さを増し、その画面も『ハンドシェイカー』の路線を受け継ぎつつ、さらに過激なものとなっている。専門家からの評価は以下のようなものだ。
「GoHandsのアニメーションは地上デジタル放送がいかに我々から画質、ビットレートを奪ったのかを苛烈に告発し、またNHK 8K放送にふさわしい新時代のアニメーションを先取りしている。アティチュードにおいて芸術的であり、内容的にエンタメ、すなわち死角なし。」
――アニメーション監督・平川哲生[9]
「『もめんたりー・リリィ』、もはやGoHands的としか形容しようのない異質な画面のもとにゼロ年代ノベルゲームのような物語が展開する──いい意味で──終始異様なアニメだった。」
「GoHandsはアニメーションの「文体」をラディカルに刷新していて、あまりにも前衛的すぎる。」
――新千歳空港国際アニメーション映画祭プログラムアドバイザー・田中大裕[10]
『ウィズ』は、DJプレイというテクノロジーありきの文化実践を、括弧つきの「人間的」成長を描くビルドゥングス・ロマンという旧来的な物語形式に転用したことで、その実践が本来備えていた、「機械」と「人間」の揺らぎの中から創造性が発揮されるという前衛性を捉え損なってしまっていた。一方、『もめリリ』は世界観自体にポストアポカリプス=ノン・ヒューマン的な設定を導入することで、その前衛性を実装し直していると言える。「モノが語る」GoHandsアニメーションの特質を十全に活かすために、「物語」が逆算的に導かれたような印象を受けるのである。

そして、こうした設定は私たちが現代において「テレビアニメ」を享受することに対する、鋭い批評性も示している。私たちは様々な「機械」を介することで、初めて「テレビアニメを観る」という経験をすることができている。HDDレコーダー、映像プラットフォーム、そして「倍速視聴」……映像のデジタル化とは、「作品」が制作者のコントロールを離れ、視聴者が任意に操作できる「情報」になることを意味している。平川が言っているのは、要するに「普通のデジタル地上波放送で見ると処理が追いつかないほどの情報量がある=画質がガビガビになる」ということであり(『アニメスタイル』編集長の小黒祐一郎による「画作りが相当に意欲的です。〔…〕これは配信で観たほうがいいかもしれない」という発言もこれを補強する[11])、私たちの映像視聴体験がテクノロジーな条件に規定されている=「機械」と接続することによって生じるサイボーグ的な知覚に基づくものであるという現状を、本作がラディカルに告発しているということだ。

ここで、主人公・霞れんげの記憶喪失という設定もポイントとなる。田中が本作のシナリオに関して言う「ゼロ年代ノベルゲームのような」という形容は、まさにこの点を指したものだろう。ノベルゲームの主人公はプレイヤーの選択によって行動を変え、あり得たはずの過去を思い出したり、別の分岐上では忘れたままだったりする。また視界をプレイヤーと共有し、本人の姿は画面上に映らないため、存在の連続性を客観的に保証するものがない。「記憶喪失の主人公」とは、ノベルゲーム的な、つまりユーザーインターフェースを介して主人公を操作する「プレイヤー」という(物語内部においては)不在の視点の表象である。彼/彼女に代わって世界の分岐を一望する記憶を保持する、ゲームプレイヤー的な幽霊=ノン・ヒューマンの視点を、物語そのものが内包していることを意味しているのである。これにより物語全体が「存在しない記憶」なのではないかという白昼夢感、シミュレーション感が持続し、表面上は「無人の世界に残された少女たちの物語」でありながら、「彼女たち自身も本当は存在しないのではないか」という強烈な違和感――しかしこの「違和感」はGoHands的な画面作りとは整合的なものである――を視聴者に残すことになる。

そして、音楽について。『もめリリ』のサウンドトラックにはやはりGOON TRAXのレーベルオーナーである寿福が関わっており、実際の作曲はRyosuke Kojimaという作曲家が担当している。楽曲はすべて新規に作られていて、既発音源によるDJミックス的な手法は取られていない――つまり通常の劇伴制作工程と同じである――のだが、その主な音楽性はジャジー・ヒップホップであり、「機械」と「情動」のあいだの揺らぎを表現するという音楽的な主題は受け継がれている。
そんなKojimaはGoHandsの作画スタイルについて、「ビートを起点にBPMベースで作画を進めていくMAD的なスタイル」と評している[12]。そう、「MAD」である。これは既存のアニメ映像の断片にユーザーが勝手にポップミュージックを組み合わせた非合法の編集動画のことで、海外文化圏では「AMV (Anime Music Video)」という名称で定着しているものだが、要するにYouTubeやニコニコ動画が登場して以降の、より人口に膾炙したマッシュアップ文化のことだ。映像素材と音源素材を同一のタイムライン上で等価に扱うことのできるソフトウェア=機械の登場によって、目で認知するプロットな整合性よりも、耳で知覚するビートの快感によって説得力を持たせるような映像制作上の価値基準が生まれたのである。いま思えば、『ハンドシェイカー』はこの美学を体現していた。視覚的には様々なメディアテクノロジーが「噛み合わない」まま散乱しているだけの映像に見えつつも、ジャジー・ヒップホップという、マシン・ビートの中にわずかに存在する揺らぎを知覚する音楽との連動によって、散乱する諸要素が「噛み合う」瞬間のカタルシスを生み出すことに成功していた作品なのだから。
メディアテクノロジーの発展を経て、人類の知覚は確実に変質している。その是非は一旦措くとして、ソーシャルメディアやショート動画、スマートフォンゲームなど、無数の視覚情報に囲まれる私たちは、集中力を著しく擦り減らしている。従来の映像と比べて聴覚の重要性が大きい「MADの美学」は、そんな状況に適合した映像美学でもある。
『ハンドシェイカー』において提示された、テクノロジーと人間、「機械」と「情動」のあいだでの揺動という主題。それを作画セクションと音楽セクションのさらに踏み込んだ相互理解と、世界観設定の深い練り込みによって推し進めたのが、『もめリリ』という作品である。それは、GoHandsがついに自家薬籠中の物とした、デジタルオブジェクト=モノによるストーリーテリング……「モノ語り」の方法論だ。ポスト動画プラットフォームの美学と言える「MADの美学」をもって、デジタルテクノロジーの浸透によって根本的に変質した映像体験の実態を鋭く暴く。それこそがGoHandsが発明した「文体」の効果であり、同スタジオをアニメーションの前衛と呼ぶべき理由なのである。
[9]平川哲生 Tetsuo Hirakawa(@bokuen)より、2025年1月3日の投稿。
https://twitter.com/bokuen/status/1874854250242846789
[10]田中大裕|Daisuke Tanaka(@diecoo1025)より、2025年1月3日の投稿。
https://twitter.com/diecoo1025/status/1874833589763973249
https://twitter.com/diecoo1025/status/1874834914040046054
[11]小黒祐一郎(@animesama)より、2025年1月3日の投稿。
https://twitter.com/animesama/status/1874969341743296669
[12]音楽で振り返るもめんたりー・リリィ①(Ryosuke Kojima 個人note)
https://note.com/ryosukekojima/n/nce8e1bf567e6
参考文献(注釈で挙げていないもの)
- 佐々木友輔、noirse『人間から遠く離れて――ザック・スナイダーと21世紀映画の旅』(トポフィル、2017年)
- ジョーダン・ファーガソン著、吉田雅史訳『J・ディラと《ドーナツ》のビート革命』(DU BOOKS、2018年)
- 高瀬康司編著『アニメ制作者たちの方法――21世紀のアニメ表現論入門』(フィルムアート社、2019年)
- トーマス・ラマール著、藤木秀朗監訳、大﨑晴美訳『アニメ・マシーン――グローバル・メディアとしての日本アニメーション』(名古屋大学出版会、2013年)
- 原雅明『Jazz Thing ジャズという何か――ジャズが追い求めたサウンドをめぐって』(DU BOOKS、2018年)
- 渡邉大輔『新映画論――ポストシネマ』(ゲンロン、2022年)