不可能性としてのセカイ系――杉井光の忘却の否定神学について

王琼海(紅茶泡海苔)

2021年に弊サイト管理人・北出栞が発刊した同人誌『ferne』に掲載の論考です。執筆者の王琼海(紅茶泡海苔)さんが文学フリマ東京40にて本稿に関連した内容の同人誌『東アジアのなかでの「ファウスト系」』を刊行するのに合わせてウェブ公開します。同誌の詳細については下記のリンクをご参照ください。

コロナでセカイ系が現実になったのか

スーパーで買い物をすると、レジの密防止のビニールシートがどうしても気になる。今年は私が日本に留学に来て三年目になる。過ぎた二年の歳月はその半分が新型コロナウィルスによって占められていたが、特に不便を感じることはなかった。それは多分、ビニールシートがなくても人と人の距離が予めそこに設けられていたという感覚を、私がずっと持っているからだ。このビニールシートは結局、人と人の距離を可視化しただけと思う。エヴァのATフィールドのように。コロナでエヴァの新しい映画の公開が二回も延期したが、現実そのものがますますエヴァに見えるようになった。映画を見なくても現実を見ればいいということになってしまった。これは良くないことだ。

コロナもそのうち収束すると思うし、ビニールシートが撤廃され、人と人を隔てる物理的、可視的なものがなくなり、「ふれあい」ができる世界に戻ることを皆は祝杯を上げて喜ぶであろう。エヴァ的な距離感がコロナとしていまこの現実にあるということは、逆に言えば、それが「乗り越えられる」ものとして、自粛やワクチンによって解消できる問題としてあるということだ。しかし、エヴァ的な、言わば「セカイ系」的なものはおそらくそういうものではないのだ。

いま中国では、コロナはまさにこのような「乗り越えられる」ものとして認識されている。実際感染をよく抑え込んでいるし、諸外国、特にアメリカに比べて、輝かしい成果を収めていると言えるだろう。しかし、コロナがナショナリズムの高揚感を喚起させるための「コンテンツ」として消費されることにやはりどうしても抵抗を感じる。

中国におけるセカイ系の立ち位置

テン年代以降、ナショナリズム的な「物語消費」はグローバルに流行しており、中国もそれを免れない。特にここ数年、中国のSF小説やスマホゲームなどのコンテンツが次々と海外に進出しているが、このような文化の輸出はよくナショナリズムと結託して消費されている。劉慈欣(リュウジキン)『三体』を例として上げるが、日本と中国での受容の落差は大きい。

例えば、『三体』の翻訳者である大森望は、その壮大さは古臭いながらも、SFが小さいテーマしか扱われなくなった今において、逆に新鮮に見えると評しているが、中国ではその「逆に」というメタ的な構えがなくなり、ただベタに壮大さを追い求め、「大きなものだけが正義」のような空気になっている。「大きな国はスケールのデカい話を作り、小さい国はスケールの小さい話をつくる」、コンテンツのテーマやスケールの大きさは国とその国民のレベルを決定する、というこのような「格局論」は、いまの中国における大衆文化消費のなかで広く共有されている態度である。

いまの中国における大衆文化は、ネット文学や映画を始め、このような大きなものの追求がますます主流になっているが、その対極としてよく批判されるのが実は新海誠的なものだ。2016年に『君の名は。』が世界的に受容されるなかでも、中国国内ではそのような批判を大量に見かけた。その状況が耐え難く、『君の名は。』が置かれる批評的、社会的状況を説明し、そのような批判に反論しなければならないと、一種の使命感に駆られて、私はセカイ系批評の視点から評論文を書き、当時中国の大手アニメ情報メディア「Anitamaに投稿した。ギャラは日本円に換算して2万円ぐらいしかなかったが、それが私の物書きとしての商業デビューだった。

セカイ系と青春文学の齟齬

セカイ系は中国において「大きな物語」のカウンターとして捉えられていると私は書いたが、それは必ずしもセカイ系が小さな物語とイコールであることを意味しない。セカイ系を含むゼロ年代文芸を語る際、避けられない雑誌として『ファウスト』があるが、同誌が一時中国の青春文学の旗手だった郭敬明(カクケイメイ)とコラボレーションを行っていたことは、いまではあまり知られていないことだ。中国において、郭敬明はまさに「小さな物語」の代表格で、病気、死、災厄、煩悩に満ちた青春小説を得意とする作家だった。郭が『最小説』(2006)を刊行したあと、『ファウスト』に目をつけられ、またそのコラボレーションが一瞬しか続かなかったことはやはり何らかの本質を表していると思う。

郭敬明に代表されるゼロ年代の中国の青春小説は、退廃美的な文体と空洞な青春物語が特徴で、そのことが長い間「無病呻吟」(病なき喘ぎ)だと中国の文芸界から批判されていた。よく考えてみれば、セカイ系と呼ばれる作品もまた似たような状況に置かれていた。しかし、セカイ系が決定的に違ったのは、その退廃的なものを哲学、SF、ミステリ、もしくは超自然的なものによって粉飾していることだ。東浩紀風に言えば、キミとボクの問題を存在論化しているのだ。そう考えると、郭敬明とセカイ系の違いは、おそらく『セカチュー(世界の中心で、愛をさけぶ)』と『AIR』くらいのものだ。

オルタナティブとしての中国青春小説

セカイ系は『三体』と真逆な方向に向かっているが、しかし、郭敬明と同じかと言われればそれにもまた違和感を覚える。「大きな物語」と「小さな物語」の中間ぐらいに位置し、SFと青春が掛け合わされたものこそがセカイ系の立ち位置だと思うのだ。

このようなSF的な要素を掛け合わせた「不思議」系な青春小説は、ゼロ年代の中国において比較的空白地帯だった。私はずっとそういう作品を追求していた。『ファウスト』と郭敬明が手を組んだのは2008年だが、その前年の2007年に、中国最大のライトノベルBBS「軽之国度」が創立され、それまで香港や台湾に留まっていた日本のライトノベルブームが一気に中国大陸にまで広がった。

その影響下に創刊されたのが『小説絵』(2009)という青春文芸雑誌であった。この雑誌はライトノベルの影響を明言しながらも、自らの青春文学の形を模索していた。その中で、私が一番気に入っているのは、閑晴(シェンチン)による『北航悠遊記』だった。『涼宮ハルヒ』シリーズを彷彿させるSF要素を含む学園ラブコメを、作者の北京航空航天大学での実体験を混ぜ合わせながら描く青春小説だ。恋愛成就の確率を測る機械とか、主人公とヒロインの魂を入れ替える箱とか、至るところで日本の漫画、アニメ、ラノベのパロディが行われ、『小説絵』の中でも一番日本のライトノベルに近いものだったかもしれないが、北京航空航天大学でなら本当に作ってしまうのではないかという独特のリアリティがあった。私の中では、これこそ中国の青春文学のオルタナティブな道を示したものとして捉えているが、しかし、その試みは、角川書店(現:KADOKAWA)の中国大陸進出によって挫折した。

ライトノベルの中国化、そして挫折へ

『小説絵』が創刊された翌年に、角川書店が中国大陸に進出し、「広州天聞角川動漫」という会社が作られた。日本のライトノベルの中国大陸版の出版や中国大陸におけるライトノベル文化の普及を主とした会社だったが、中国現地でのライトノベルの創作や投稿の支援も行っていた。前述した『小説絵』の青春小説作家たちも、大半はこちらに流れ込んだ。「ライトノベルの中国化」とでも呼ぶべき文芸運動のようにもなっていた。

結果から言えば、その試みは失敗に終わった。原因は単純で、そもそもライトノベルの定義が曖昧で、天聞角川の編集者自身もわからなかったからだ。閑晴もその傘下のラノベ雑誌『天漫・軽小説』で連載を持ったが、『北航悠遊記』のような成功は結局できなかった。「ラノベっぽいもの」を意識しすぎると逆にダメになるという典型的な例だ。その後、これらの青春小説とラノベの流れはやがて前述した「大きな物語」としてのネット文学に飲み込まれていくが、それは別の機会でまた記述するとしよう。

いま振り返ってみれば、中国におけるオルタナティブな青春小説の挫折の最大の原因は、理論や批評の不在である。理念とする目標が曖昧なまま、実践が先行して、間違った方向に足を踏み外したことがもっとも残念なところであった。

こんな小さな歴史を中高時代にリアルタイムで見て、やがて天聞角川のBBSでの「ライトノベルとはなにか」論争に巻き込まれていた大学一年生の私の前に出現したのが、2012年に出版された東浩紀『動物化するポストモダン』の中国語版であった。しかし、残念なことに、その出版は遅すぎた。日本ですら、ゼロ年代がとっくに過ぎ去り、東日本大震災でオタク批評が頓挫する中、その出版はもはやなんの指導的な効果を与えてくれなかったのだ。

ライトノベル運動としてのセカイ系

斯くして、もともと創作志望だった私は批評に志望を変更した。東浩紀や大塚英志など日本のオタク批評を読み漁って、個人で勝手に翻訳したりして、そして自分で批評を実践して、いろいろやっていたら一つ気づいたことがある。ライトノベルから入った私はすんなりと日本のオタク批評を受け入れられているが、アニメから入ったひとはなかなかそうはいかない。いま周りで評論を書いている中国の同業者の中で、アニメや少年漫画から入った人はどちらかというと、氷川竜介、井上俊之などのアニメ史、作画史を受容し、ラノベ、ギャルゲー、少女漫画から入ったひとは、オタク批評と親和性が高いのだ。

というのは、そもそもゼロ年代文芸の主流はアニメではなく、ラノベやギャルゲーだったからだ。『新現実』、『ファウスト』、『波状言論』などによって作られたある種の文学運動の流れの受容を、ライトノベルの中国への普及は準備した。前島賢は『セカイ系とは何か』の中で、ゼロ年代のライトノベル・ギャルゲー文芸運動が逆にセカイ系というジャンルを作り上げた側面を有していることを述べているが、批評の受容が批評の翻訳に先行される転倒を経験した外国人の私からすればすごくリアリティのある話だ。

新海誠も、いま振り返って見れば、セカイ系という言葉で評されることは最初の頃はあまりなかった。大塚英志編『「ほしのこえ」を聴け』(2002)で、新海を形容するワードとして、一番使われたのが「一人ガイナックス」だった。当たり前のことだ、新海があのとき前衛的だったのは、「セカイ系的だから」ではなく、一人で集団制作が前提とされていたアニメーションを作ったからだった。あの東浩紀でさえ、この本では新海作品にある種のテーマ性の存在を見て取ることに否定的な態度だった。中国でも似たような受容であった。いま手元にある2005年の中国のアニメ雑誌の記事を見れば、「『雲のむこう、約束の場所』は一人でアニメを作っていた新海が商業化してしまった」と批判する論評が載っている。

『東西動漫社』Vol.9(2005年)、タイトル「アニメが商業に遭遇した時」

『東西動漫社』Vol.9(2005年)、タイトル「アニメが商業に遭遇した時」

あの頃はまだ「セカイ系」という批評的な単語がまだ定着していなかった。中国ではなおさらだ。前述したように、新海作品は中国では長い間郭敬明と似たような「小さな物語」として受容されていた。単なる青春や失恋をめぐる話だとみんな思っていた。正直な話、オタク批評を読む前の私も結構そう思っている部分があった。だから2016年に『君の名は。』をセカイ系批評として書いたのは、ある意味で必然的な帰結だったと思う。セカイ系批評なくして、セカイ系はセカイ系として成立しないのだ。

セカイ系の崇高をめぐって

この同人誌の編集長はコロナ禍の現実にセカイ系の特徴を重ねつつ、未来に向けて語ろうとしているみたいだが、私は違和感をもっていた。コロナでセカイ系は現実になったのではなく、むしろ現実によって覆い隠されている。柄谷行人風にいえば、セカイ系とは、歴史だ。ならば、この未来でセカイ系を語ろうとすれば、むしろさらなる過去に語らせるべきではないか。

セカイ系批評の前史として、宮台真司の『サブカルチャー神話解体』は非常に重要な本だと思う。セカイ系的なものの呼称の候補として「現代ファンタジー」という概念を打ち出した佐藤心も、この本から以下の図を引用して『イリヤの空、UFOの夏』を論じていた

宮台真司、石原英樹、大塚明子『増補 サブカルチャー神話解体―少女・音楽・マンガ・性の変容と現在』(ちくま文庫、2007年)より、北出作成

宮台真司、石原英樹、大塚明子『増補 サブカルチャー神話解体―少女・音楽・マンガ・性の変容と現在』(ちくま文庫、2007年)より、北出作成

図で説明されているのは青少年系異世界マンガだが、「大世界、小世界、日常性、非日常性」の軸からわかるように、いわゆるセカイ系を批評するのに親和性が非常に高いものである。この図に目をつけた佐藤心はやはり慧眼としか言いようがない。

これらの図の内容をそのまま解説しようとすると長くなるので、あくまでコンテンツの歴史的変遷に限定して言うと、基本的に70年代から90年代の流れは、スケールの大きなSFもの(サブライム)から、学園ラブコメ(無害な共同性)、ロリコン漫画(エロのインフレ)、ポストアポカリプス(陳腐な終末世界)という順番で変化していく。そして佐藤心は、『イリヤの空』といったセカイ系作品を「日常性」と「大世界」をあわせたポストアポカリプスとは違った、別の形での日常の中での「崇高的なもの」の回復として捉えていた。

佐藤のこのようなセカイ系作品の捉え方は、前述した「SFと青春小説の間」というセカイ系の中国における立ち位置とかなり近いものである。ヒントになるのは、この本で宮台がキーワードにしている、少女漫画的な「関係の偶有性」というものだ。

「関係の偶有性」というのは、60年代までの家父長的なものが崩壊し、自由恋愛ができるようになったものの、その自由が逆に新しい「関係性に対する不安」を作り出している状況を指している。前述したコンテンツの歴史の変遷は、この不安を「無害化」するさまざまな方向性をなぞっているものである。このような不安は、なぜ自分が手にしているのが、他ではなくこの関係なのかという関係性の固有性に対するものであり、また、例えば東浩紀が新海に共感している「恋愛関係の不安」とかなり近いものだ。

セカイ系作品における「崇高的なもの」の回復とは、いわばこの不安を無害化せずに回復するのとほぼ同じ意味である。新海が好んで描いているある種の恋愛関係における「距離」の存在論化はまさにこのようなものだし、恋愛成就の確率を測る機械をその青春小説の冒頭で描いた閑晴も、この不可能性の問題に直面していたと言えるだろう。

二つの崇高をめぐって

しかし、佐藤が述べた崇高からは一つ欠け落ちたものがあった。彼はカントから崇高に接近し、『イリヤの空』をある種の「乗り越え」として捉えていた。佐藤によれば、『イリヤの空』における崇高的なものの回復は、イリヤの絶望を救済する立場にある浅羽が「救済して希望となるか、傍観して祈りを捧げるか」の二項対立を超越し、より高次元的な場所でイリヤと改めて向き合うことにある。自意識による超越的場所への到達というこのような崇高の回復は、いわば極めて「形而上学的」なもので、真正面からの「乗り越え」である。

しかし、セカイ系における崇高的なものの回復にはおそらくもう一つの様式がある。それは精神分析的なもので、平たく言えば「不可能なもの」への志向である。「乗り越えのできないもの」と言い換えてもいい。世界レベルの危機という視点から見れば、たしかにコロナは極めてセカイ系的な状況であろう。しかし、それはただ乗り越えられない困難を乗り越えられる困難で覆い隠しているだけだ。私が『君の名は。』を先鋭的だと思ったのは、たとえ世界の救済という偉業を達成できたとしても、それでも恋は成就できないという構造があるからだ。世界救済のご褒美として恋を用意する家父長制的なものでもなく、世界と恋を対立項として置くのでもなく、ただ単に、その両者の絶対的な無関係を描いて、恋愛関係の不可能性を描いていることにその美学があるのだ。

この不可能性は、別に恋愛関係に限るものではない。言い方を変えれば、それがゼロ年代批評でも散々言われた「否定神学」だ。新海誠には恋愛の不可能性を、麻枝准には家族の不可能性を、法月綸太郎には真相の不可能性を、押井守には革命の不可能性をそれぞれあてることができる。

佐藤はカントから崇高という超越的なものに接近したが、しかし、まさにそのカントの『純粋理性批判』によって、超越的なもの(物自体)への認識が禁じられていた。そこに安易な自意識を持ち込んで崇高を回復するということは、柄谷風に言えばただの独我論に過ぎない。20世紀の哲学は基本的にこの超越的なものへ思考の禁止に忠実であるが、そこで忠実しつつもなおこの思考不可能なものについて極めて曲折な形で考えようとするのが「否定神学」だ。その試みは、「逆説的」に超越的なものに認識することがポイントで、思考が不可能であること自体の存在論化である。哲学史において、その代表はハイデガーとフロイトをハイデガー化したラカン精神分析だが、『存在論的、郵便的』でこの「否定神学」を取り扱った東浩紀はそれをオタク批評のなかに持ち込んだのだ

このように、セカイ系には二つの方向性がある。同じ超越的なもの(崇高)の回復を志向しつつも、それを自意識で乗り越えられるものとして捉える「形而上学的セカイ系」と、逆説的にしか乗り越えられない不可能なものとして捉える「否定神学的セカイ系」とである。私はこの後者の不可能なものを描いたものこそが――セカイ系作品とゼロ年代批評が不可分という意味において――より高度に形式化された「セカイ系」だと考える。

記憶の不可能性

そんな「不可能性」を追求するジャンルとしてのセカイ系の中で、私が一番惹かれたのは、「記憶の不可能性」をめぐるテーマだ。それを言い換えれば忘却になる。忘却というテーマは、多様な作品で描かれているが、人間にとっての忘却には大きく分けて二種類のものがある。

ひとつは単純な徹底した忘却で、現実に突き刺されるまで忘却それ自体を認識していないというものだ。そしてもうひとつは、痕跡を残した忘却で、探しもの、探し人など、目的自体はわからないが、「何か」を忘れているという欠如の感覚だけが残っているものである。セカイ系の忘却にはこの後者の方が圧倒的に多く、例えば『Kanon』の月宮あゆの探しものや『君の名は。』のラストシーンの「何かを忘れている」ことに囚われている主人公が代表的である。

このような欠如をもった忘却が特殊なのは、忘却と記憶が一体となっているという点だ。人は誰しも、何か忘れていることを覚えている。記憶そのものは不可能でも、しかしその対極である忘却によって別の仕方で「アーカイブ」できる。このような「不可能なもの」への逆説的なアプローチ、記憶の別のあり方への探求は極めて「否定神学的」なものだ。

ゼロ年代のライトノベル・ギャルゲー文芸運動の影響下にある、おそらく最後の世代である杉井光はこのような否定神学的な構造に極めて自覚な作家である。彼は中国でも大変人気のあるラノベ作家だった(2021年となった今では、マイナーな存在となっていることは否めないが)。

「あの夏の二十一球」の記憶

杉井光の作品の中で、この忘却の記憶のテーマを扱った代表的なものとして、『神様のメモ帳』の短編である「あの夏の二十一球」とメディアワークス文庫から出た『終わる世界のアルバム』が挙げられる。

まずは「あの夏の二十一球」から説明しよう。陰湿な青春ドラマとちょっとしたミステリ要素の混ざった『神様のメモ帳』という作品の中でもこの短編は特に異色なもので、物語は主人公の鳴海があるオンライン野球ゲームにハマっているところから始まる。ある日、通い続けていたゲームセンターがヤクザに絡まれ、破産寸前に追い込まれていることを知って、自分たちの遊び場を守ろうとヤクザと野球で勝負することになった。あとになって、ヤクザの頭である「ネモさん」は三十年前甲子園投手だったという驚愕の事実が分かる。どうやらネモさんは競争が激しい高校野球の中、自分を含むほとんどの選手が人々の記憶の中で風化され、忘却されていく事実が耐えられなくて、だからゲームで野球をやっているつもりでいた主人公たちが気に食わなかったらしい。

いざ試合になると、探偵役であるヒロインのアリスの情報収集や采配によって、なんとか大差を付けられずに逆転のチャンスを迎えたが、それでもネモさんの情報は結局入手できなかった。本当に誰の記憶の中にも残っていなかったからだ。このままだと負け一直線の状況で、鳴海は咄嗟に思いついた。その情報が、その不可能な記憶が別の形で残されている場所の存在を。そして、ネモさんの決め玉を知った鳴海は見事な逆転サヨナラを決めた。ホームランコースに向けて、高く飛んでいくその玉は、忘却によって閉ざされたネモさんの心を氷解させた。

麻枝准作品の野球シーンも彷彿とさせるこの「あの夏の二十一球」のテーマ性は、この「不可能な記憶」の所在にある。それはまさにネモさんが一番嫌いな野球ゲームの中にあった。このゲームでは、名前を入力すると、データベースを照合し、その名前に相応しい数値やデータでゲームキャラクターを作れる。感情をもつ人間の記憶よりも、冷たい機械のデータベースのアーカイブのほうが「覚えている」。このような価値転倒は、東浩紀的な「データベース的な記憶」を想起させる。そして、杉井がうまかったのは、この転倒をさらに転倒し、そのデータを当時その勇姿を胸に刻んだ誰かが入力したと解釈したという点だ。不可能な記憶は、ここでは記憶=忘却の配達によって救済される。たとえその人が今や不在、もしくはそのことを「忘れた」としても、「覚えていた」という過去形がデータベースの中に永遠に残り、いつかは送付すべき場所へと届く。それが、杉井光の忘却と記憶の弁証法だ。

忘却と記憶の否定神学

『終わる世界のアルバム』は、2010年に単行本として発売、2012年に文庫版がメディアワークス文庫版から発売された作品だ。ほとんどのライトノベルレーベルがラブコメやなろう系に占領されつつあるいま、メディアワークス文庫をはじめとする「ライト文芸」のレーベルが数少ない貴重なゼロ年代文芸の系譜を継ぐ作家の活動場所になっているが、やはり全体的に劣化コピーの印象がどうしてもある。レーベルの創立初期に出版されたこの本は極めて先鋭的であるが、後の作品への継承が見られないのが、残念で仕方がないのだ。

この作品は極めてセカイ系的な設定になっている。ある日世界に異変が起き、人々が次々と消失していくが、その消失とともにあらゆる存在の痕跡や記憶が世界によって書き換えられる。人はもはや死に直面することがなく、親のない孤児、身の覚えのない妊娠、所有者不在の建物や誰も通っていない会社がただただそこに存在しているような世界になっている。異変は確かに進んでいるが、すべてを忘れてしまうから、誰もその異変の実在を証明できないのだ。そんな中、アナログフィルムを使って写真を撮った人のことを忘れずにいられるという能力を持った主人公は、自分と親しかったひとたちの消失を淡々と眺めているだけの生活を送っている。

話が進むにつれて、一人の少女が突然主人公のクラスに出現する。いわゆる「転校生イベント」などではなく、なんの前兆もなく、ある日突然クラスメートが一人増えたのだ。周りはまったく違和感を持っていなかったが、全てを覚えている主人公だけがその奇妙さに惹かれた。彼女との接触で判明したのは驚愕の事実だった。彼女、水島奈月は一度消え、人々の記憶から忘れられている。ある理由で復活した現在の彼女もただの残滓であり、それからもどんどん跡形もなく消え去っていくのだ。

何もできずに、ただヒロインが消え去っていくさまを見ているその不能性は、『AIR』にも似たような構造だが、この作品が特殊なのは、そこではない。重要なのは、あらゆるものが忘れ去られていくこの世界で、不可能な記憶がどのようにして可能になるのか、という問題だ。結論から言えば、忘却こそが、記憶を可能にしている。この作品の一番重要なポイントは、人々は消え去った人々の欠如を埋めるため、さまざまな代償行為を作り出しているということだ。たとえば、主人公が通っているフィルム屋に毎日店主である父にお弁当を作っている娘がいた。彼女は父が消えても、お弁当を毎日作る習慣が消えていなかった。お弁当を作る対象を失った彼女は、彷徨っている野良猫に、その弁当をあげるようになる。まるで、毎日その猫のためにこそ、お弁当を作っていたかのようだ。また、主人公は幼馴染の家に長く居候しているが、それもその家から消えた父の位置を補うためのものだった。幼馴染はやがて母も失い、主人公に料理を出しているのも母のための代償行為だった。

この終わる世界で、主人公がアナログフィルムで写真を撮った人は彼の記憶からは消えない。しかし、なぜ写真を撮り始めたのかはもう覚えていない。物語の中で、主人公が写真を撮る直接の理由は卒業アルバムを作ることだが、しかし「シャッターを切るたびに、指に違和感がまとわりつく。もっとほかに、撮らなくちゃいけないものがある気がする」。アルバムを撮るためにカメラを始めたわけではない、「じゃあ、なんのためだろう。だれのためだろう?」

この「だれ」というのは、まさにあの一度失われた少女水島奈月であった。水島奈月は、主人公と親密な関係にあり、そして一度は消えた。すべてを覚えていると思い込んでいる主人公にとって、それは何よりも衝撃的であった。心の中で一番重要な位置を示している彼女の消失によって、記憶のなかに「空白」が現れる。人はその失った「何か」の欠如を補填するために、何か別のものを入れようとするのだ。そう、彼の忘却から逃れる能力も、すでに誰かのための代償行為だった。

この欠如と代償のロジックは、極めて精神分析的なものである。この世界での記憶の消失は、先程説明したように、その消えた人に関わるすべてが消されるわけではない。どちらかというと、記憶の対象だけが欠如し、それに関わった事象はすべて再組織され、合理化されていく状況である。代償行為はまさにこういうロジックである。日常的な習慣は消さずに、その行動の対象だけがお置き換えられる。しかし、その再組織や合理化もまた完全なものではない。主人公が感じている「違和感」とは、その完全に合理化されていない欠如の痕跡であり、この世界における「余剰」である。精神分析において、この合理化はまさに象徴界の機能である。そして、象徴化=合理化の果てになお残る「余り物」は、象徴界の機能を越えたものだから、原初的な欠如=現実界の超越的証明になる。この欠如の合理化の余剰から超越的なものへの証明は、東浩紀の文脈でいう否定神学そのものである。

シャッターを切るたびに、撮る対象に「違和感」を持つ主人公は、まさにこの「違和感」を手がかりに、忘れたはずの「誰か」の存在を逆説的に証明してしまう。そして、この人が「消える」世界に突然「増えた」水島奈月は、まさにこの逆説的な証明に対応し、ピッタリ接合されるのだ。水島奈月の消失以外すべて覚えている主人公にとって、彼女が唯一の余剰だからだ。実際、水島奈月と再会した主人公はこの「余剰」の状況を手がかりに、失われた記憶を少しずつ推論していく。たとえ奈月の消失が止められないものだとしても。

この本で私が一番痺れたのは、こんな一文だ。

「ぼくらの瞬きひとつ、呼吸のひとつ、鼓動のひとつまでが、かつて存在していたなにかのためのかわりなのかもしれない。」

身体の立ち振舞の一つ一つが全部、すでに失われた誰かのための代償かもしれない。生きるための最低限の鼓動ですら、この世界での余剰なのだ。忘却による欠如が、記憶を可能にする。このような高度の自覚によって作られた「否定神学」を書いた杉井光はやはり、優れた感性をもっていると言わざるを得ないのだ。

その鼓動で記憶を

記憶の不可能性を直視し、安易な乗り越えを考えずに、むしろその逆方向からアプローチするこのような否定神学的な手法は、のちの『君の名は。』をも先取りしていた。『君の名は。』の最後で、瀧は忘れてしまった「何か」のために、理由もないまま、ほぼ毎日図書館に通い、建築図面を描く生活を送っている。その退廃的な生活は、まさに同じような代償行為だった。思えば、あの最後のシーンで瀧と三葉が再び出会ったのも、代償行為のおかげだ。

「愛し方さえも君の匂いがした、歩き方さえもその笑い声がした。」

「スパークル」のこの歌詞が示したように、あの入れ替わりの最中にお互いの「歩き方」に相手の色を認めたふたりは、たとえ記憶が消えたとしても、自分には属さない痕跡を身体のあらゆる立ち振舞に見出したと思う。まさに杉井光が書いているように、鼓動、瞬き、呼吸の一つ一つが全部、誰か別人のものになっていた。実際、電車から飛び降りた瀧はスーツ姿ながらも、女々しい走り型をしていたし、三葉もハイヒールながらも、ものすごく健気な姿勢で駆けぬけていた。

そんな自分に属さない痕跡や習慣によって悩まされるふたりが顔を合わせたらどうなるか。映画のなかではこんなセリフがあった。

「私たちは、会えばぜったい、すぐに分かる。私に入っていたのは、君なんだって。君に入っていたのは、私なんだって。」

これは単なる希望的観測ではなかった。記憶が回復したわけでもなかった。ただ日常的な立ち振舞があって、その立ち振舞に自分ではない「余剰感」があって、そして、目の前に同じことで悩まされている人がいた。だから、二人は再び出会う際、薄々感じていたのだ。あの走りは、あの表情は、そして、あの心臓の鼓動は、どこか私に似ていた。それこそが、不可能な記憶を可能にするオルタナティブな答えだった。

余談ではあるが、私が2016年に香港で『君の名は。』を見たときの話をしよう。出発の前日、親戚の家に泊まっていた。もう数年も顔を合わせていない親戚だったが、彼女たち一緒に外食した。その食卓で、私は初めて気づいたのだ。自分が箸を持つとき、すごく女々しい持ち方をしていることを。そして、数年ぶりに会う親戚やそのとき初めて会った子供たちも全く同じ持ち方をしていることを。その時、私は思ったのだ、これが「家族」なんだ。

日常の些細な立ち振舞の中に、血縁、家族、記憶、他者、そして世界を逆説に見出す。多分、セカイ系の感性というのも、こういうものだ。

セカイ系は否定神学を超えるのか

これまでの議論で、我々はセカイ系の中国における受容を起点に、ゼロ年代のライトノベル・ギャルゲー文芸運動を参照しながら、セカイ系をSFと青春小説の中間にあるものとして捉え直した。このSFと青春小説の中間という位置は、オタク批評の歴史的に、佐藤心の崇高論と重なり、そのポイントは東浩紀や宮台真司が注目する「関係性の偶有性による不安」にも通ずる、「崇高」の回復であった。この「崇高」の回復にはおおよそふたつの方向性があり、それぞれを「形而上学的セカイ系」と「否定神学的セカイ系」と呼ぶことができる。本稿では後者の代表として杉井光作品における忘却と記憶の構造を論じた。それらの作品は、極めて自覚的に作られ、のちの『君の名は。』にも先取していた。

しかし、東浩紀の文脈に従うならば、「形而上学」から「否定神学」の彼方に、「郵便的なもの」がなければおかしいのである。ならば、「否定神学」を越えた「郵便的なセカイ系」は可能なのか。これは大きすぎる問題なので、ここでは議論しきれないが、暫定的な考え方で良ければ、それは次のようなものになるであろう。

不可能なものへのアプローチをいくら変化させても、それが「キミとボク」という一対一の関係性の不可能性についてのものである限り、「郵便的セカイ系」は存在しない。『終わる世界のアルバム』では、違和感と対応する余剰は「ただ一人」だったし、『君の名は。』でも、違和感に悩まされているのはボクとキミだけだった。そこでは、違和感を対応する「別の誰かの可能性」が欠け落ちているのだ。

『君の名は。』の最後、走るシーンのあのベタなジェンダー観に基づいた描写は、本来ならばもっと幅広い偶然性を有していた。自分に属さない別のジェンダー性に悩まされることは、いまでは多くの人が抱いていることとも言えよう。それを他ならぬこの人との運命的な出会いとして解釈してしまうその感性は、やはり最終的に「否定神学」の域を逸脱していない。しかし、それもまた、仕方がないかもしれない。柄谷行人が『探究2』で述べた恋愛論のように、多分恋愛、いわば固有名への執着とはそういうものだ。ハマっているときは必然と思い込み、そこから脱却したときは偶然性に直面する。必然性が偶然性を生み出し、偶然性が必然性を成す。両者が一体になっていることこそが、固有名の謎で、郵便的なものの本質である。

セカイ系は郵便的効果によるものかもしれないが、形而上学的か否定神学的な形しか取れない。そのことを受け止め、暫定的な結論としつつ、ここで議論の幕を下ろすとしよう。

参考文献

東浩紀『存在論的、郵便的―ジャック・デリダについて』(新潮社、1998年)
大塚英志ほか『「ほしのこえ」を聴け』(徳間書店、2002年)
佐藤心「『イリヤの空』、崇高をめぐって」、限界小説研究会(編)『社会は存在しない――セカイ系文化論』(南雲堂、2009年)所収
新海誠、西島大介、東浩紀「セカイから、もっと遠くへ」、『コンテンツの思想――マンガ・アニメ・ライトノベル』(青土社、2007年)所収
前島賢『セカイ系とは何か――ポスト・エヴァのオタク史』(ソフトバンク新書、2010年)
宮台真司、石原英樹、大塚明子『増補 サブカルチャー神話解体―少女・音楽・マンガ・性の変容と現在』(ちくま文庫、2007年)