「セカイ系文化論」は可能か?――音楽・映像の交点からたどり直す20年史

北出栞 + 柴那典 + 渡邉大輔

「セカイ系」の典型的な定義に、「〈君と僕〉の小さな関係が、〈世界の終わり〉のような大状況に直結してしまう想像力」といったものがある。これをさらに切り詰めれば、「〈個〉と〈世界〉を直結させる想像力」ということになるだろう。

「セカイ系」という言葉が登場した2000年代前半といえば、インターネットが本格的に普及していく時期であり、すなわちパソコンの普及期にも重なる。とすれば個人の想像力がデジタルテクノロジーを通じて世界に広がるモデルとして、この言葉を捉え直すことも可能ではないか。たとえば、2016年に『君の名は。』で映画興行収入ランキングを塗り替えるヒットを記録した新海誠を世に知らしめた『ほしのこえ』は、脚本・作画・演出・編集に至るまですべてを個人のMac上で完結させたことが、何より大きな衝撃を与えた作品だった。また、2018年に「Lemon」が大ヒットし、国民的音楽家となった米津玄師は、自身で動画制作まで手がける「ボカロP」出身だ。彼が本名名義で初めてリリースしたアルバムのタイトルは『diorama』、つまり「箱庭」を意味するものだった。

2010年代以降にも様々な形で、「セカイ系」の文脈は生き続けている。とりわけ制作・流通の両面において最もデジタルテクノロジーの影響を受ける表現形式である、映像と音楽の領域において顕著だ……そんな筆者の問題意識から、このたび音楽ジャーナリストの柴那典さんと、映画史研究者・批評家の渡邉大輔さんを迎えた座談会を企画した。柴さんは2014年に著書『初音ミクはなぜ世界を変えたのか?』を刊行、その後も精力的にボーカロイドカルチャー出身ミュージシャンの取材を重ねており、デジタルテクノロジーが変化させる音楽ビジネス・カルチャーについての執筆も数多い。対する渡邉さんは2012年の単著『イメージの進行形』にて「映像圏」という概念を提唱し、もはや映画はそれ単体として評価することは難しく、その背後に広がる動画サイトなどの環境との関係の中で価値が立ち現れてくるという論を展開。今年刊行の2冊の単著(『明るい映画、暗い映画』『新映画論』)では、そんな渡邉さんの2010年代の仕事が一挙に集成されている。

筆者も時おり議論に参加させていただきつつ進行した今回の座談会では、最終的に文学の潮流まで巻き込み、思わぬ固有名詞の結びつきが次々に発見される展開となった。いま筆者には、「セカイ系」というキーワードをハブにした新たな文化論が始まるのではないかという確信めいた予感が生まれている。ぜひ読者の皆さんも、その目で新たな文化史のパースペクティブが開ける瞬間を味わってほしい。

※本稿は2021年11月に刊行した同人誌『ferne』からの転載となっています(収録は同年4月)。なお転載にあたり、参照元の消滅に伴うリンク先の変更など、最低限の修正を施しています。

庵野秀明の「ポストメディア」性

北出

本誌(編註:2021年刊行の同人誌『ferne』)は「セカイ系」という概念のポテンシャルを20年越しに再考することがテーマとなっています。個々人によって解釈に幅のある言葉ですが、一番代表的な作家として名前が挙がるのが「ミュージックビデオ的」と言われる作風の持ち主である新海誠さんということもあり、映像と音楽のクロスオーバーが、作品論として展開する際の大きなポイントになると考えています。そこで、それぞれの分野の専門家であるお二人の知見をお借りしつつ、「セカイ系文化論」とでも言うべきものが可能か、検討していきたいと考えています。

まずは何と言ってもタイムリーな話題ということで、『シン・エヴァンゲリオン劇場版』(以下『シン・エヴァ』)の話題から入っていければと。自分としては、かつて「旧エヴァ」(テレビシリーズ『新世紀エヴァンゲリオン』および映画『新世紀エヴァンゲリオン劇場版 Air/まごころを、君に』)がセカイ系的と言われた原因ともいえる心理主義的な表現は見られないながら、単にそれを「乗り越えた」というのでもない、セカイ系の新たなポテンシャルを感じさせてくれる作品になったのではないかという見解を持っています。まずは映像論・映画史的な観点から、渡邉さんいかがでしょうか。

渡邉

僕は『シン・エヴァ』は、あまり細かいことは抜きに純粋に楽しめたといいますか、いい作品だったと思います。ただ北出さんもおっしゃるように、いわゆる「セカイ系」的な着地ではなかったですね。明らかにシンジ君の人としての成熟・成長を描いていて、父=ゲンドウの象徴的抑圧からの逃避としての「きみとぼく」のイマジネールな二者関係への自閉に傾斜していた1990年代の「旧エヴァ」の隘路に対して、今回の完結作は、作中のミサトさんの言葉を使えば「ケリをつけた」という話になっている。今回の物語に対して、「旧エヴァ」に思春期に接して衝撃を受けた自分の世代の書き手は、総じて納得がいっていないという意見が多かったと思うんですけど、僕自身は2020年代のいま、『シン・エヴァ』はあり得べき回答を出したんじゃないかという感触がありました。

例えば、シンジ君が前半でウジウジしているじゃないですか。あれについて、「旧エヴァ」でさんざん描かれてきたような90年代的なひきこもり/心理主義の反復だと捉えて否定的に見るロスジェネ世代の論者が少なくなかったようですが、僕はむしろすごく今っぽいというか、Z世代的だなと思ったし、そう捉えるべきだろうと思いました。リーマンショック以降に経済成長も望めないし、「うっせえわ」(Ado)的に、優等生を装いながら生きていくしかないみたいな現代の若者の心性が表れているように思えた。今のZ世代の心性のキーワードとして、マーケティングの世界などでもよく「chill out」という言葉が出ますよね。今回のシンジ君のあのダウナーな感じというのは、そういうチルアウト的なものだと思うんですよ。

また、「庵野さんが大人になってしまった」という批評にしても、そもそも5年前に「国民的」に大ヒットした『シン・ゴジラ』のときからすでに東日本大震災を意識しつつ官僚たちの奮闘と調整を描くなどして「大人になって」いた。さらに震災の文脈を意識したという意味では、なんならさらにその前の2012年の『ヱヴァンゲリヲン新劇場版:Q』(以下『Q』、他の「新劇場版」についても以下略記)の時点でその片鱗は見えていたので、「90年代の、僕の青春を返せ」みたいな『シン・エヴァ』のレビューを読んでもいまさらな感想というか、もちろん僕も言いたいことはわからなくはないけど、ちょっとズレているのではないかと感じてしまいましたね。

僕も渡邉さんと受け取り方としてはかなり近いです。たぶん『シン・エヴァ』を観たほとんどの人が、「『エヴァ』が拘泥してきた問題にケリをつけた」という、その気持ちよさを受け取った。だから絶賛されているし、批判的なレビューに関しても「自分の中の問題系としてケリがついてないのに、勝手にケリをつけるな」と言っているように僕は読めた。

その上で、後半でのセル画の流用などいわゆる「エヴァ」的な文法が、「虚構と現実の関係」という主題とばっちりリンクしているのがすごく面白かったですね。

渡邉

今回も庵野さん本来の「ポストメディア(メディア横断)」的な作家性がとてもよく出ていた作品でしたね。原画やレイアウト、アフレコ台本のページをわざと露呈させるというテレビ版の最終話でやった表現を回収していたりとか、冒頭のパリのシーンで、あえて特撮みたいなピアノ線を見せていたりとか。いわゆる絵コンテを使わずに、実写の俳優さんの演技をモーションキャプチャーして取り込むというのも、ある種既存のアニメーションの作り方をゼロベースからもう一回試行錯誤してやり直しているわけで、やっていることは高畑勲っぽいとすら言える。また、ラストが宇部の街というのは明らかに『式日』のリファーだと思うんですけど、実写作品を含めたこれまでの庵野作品のいろんなモチーフや映像表現が、集大成的に回収されているという感じがしましたね。「エヴァ」だけでなく、他の作品も含めて観ていると、よりそのコンテクストが面白くなる作りになっている。

あと、最初の問題提起にあった「音楽と映像が同時に消費される」というのも「ポストメディア」状況の特徴ですが、その意味でも庵野さんは先進的な作家なんですよね。彼の最初のテレビシリーズで『ふしぎの海のナディア』という作品がありますが、あれを作ってるときは外注に任せた作画のクオリティがひどく、作り直すのが間に合わなかったために1話まるまるナディアやジャンに歌を歌わせる、全編ミュージックビデオみたいに処理した回があったりする(第34話「いとしのナディア❤︎(総集編)」)。『彼氏彼女の事情』とかでも、俗に「劇メーション」という実写とアニメ絵と切り絵が混在している表現を唐突に紛れ込ませたり、「この時代にこんなネット動画みたいなことをやっていたんだ」みたいな表現をけっこう庵野さんはしていて、そういう90年代の庵野作品のポストメディア的な表現が現在から見ると非常に面白い。

さらに選曲そのもののセンスも独特で。新劇場版では全体を通して、大文字のクラシックや「翼をください」など、誰でも知っているような楽曲を主人公の内面の葛藤のドラマとか、クライマックスの演出のときにドーンとかけたりする。すごく内面的で詩的な映像やシーンにベートーヴェンや国民的な歌謡曲をぶつけるというのは、映像演出の用語でいう「対位法」的な表現ですが、これもセカイ系的な情緒とかエモーションともつながっているのかなという気がします。

「あえて違和感のある音をぶつける」ということを巧みにやっている作家だと僕も思います。今回の『シン・エヴァ』も、冒頭でマリが水前寺清子の「真実一路のマーチ」を歌っていて。最初の1カット、最初の1音がどう始まるかというのは映画にとってすごく大事だと思うんですが、『シン・エヴァ』はアカペラで始まるんですよね。「エヴァ」の絵には到底そぐわない、懐メロですらない曲が、絵よりも先に入ってくる。

しかし「エヴァ」ないし庵野作品の音楽について語るならば、どうしても鷺巣詩郎さんの存在を抜きには語れないとも思うんです。鷺巣さんの「エヴァ」における音楽は、アニメ劇伴というもの自体の長い歴史のターニングポイントになっている。鷺巣さんは庵野作品以外にもとてもたくさんのお仕事をされている方なので、ここではとてもその作家性を語り尽くせないんですが、それでもひとつだけポイントを言うならば、クラシックの歴史を踏まえた大編成のオーケストラによるサウンドをアニメの劇伴として使いつつ、かつ独特の和音を忍ばせるということをやってきた方で。だからこそ、日本的なマナーにのっとって作られた歌謡曲が、全体の中で浮いて聴こえるんですね。

北出

鷺巣さんへのインタビューによれば、庵野作品で作曲をする際には、庵野さんと一対一で、一切のスタッフを介さずに直接やり取りしているらしいです[1]。それは映画音楽全体からして、とても珍しいことなんだともおっしゃっている。新海さんとRADWIMPSの関係にも通じますが、そういう特別な関係性があるからこそ、独特の音楽の使い方ができるという面もあるのかもしれません。

[1]「エヴァの作曲家は監督と一対一でやり合う 鷺巣詩郎氏と庵野監督の希有な関係」PRESIDENT Online
https://president.jp/articles/27682

「虚構と現実」の関係とデジタルテクノロジー

自分は『エヴァ』について、アニメ版と旧劇場版と新劇場版、基本的にはすべて同じ方向性の終わり方をしている物語だと思っています。アニメ版は、いわゆる虚構のストーリーを突き詰めて破局に向かっていった先で、物語世界にビリビリと亀裂が入るという終わり方をした。旧劇場版(『新世紀エヴァンゲリオン劇場版 Air/まごころを、君に』)は、観客席を映す、第四の壁を破るという形で、虚構を突き詰めた先に、無理やり現実世界をこじ開けるような終わり方をした。そして『シン・エヴァ』は渡邉さんがおっしゃった通り、ドローンが撮影した宇部の風景を映して、やはり現実に帰って行くという終わり方だった。しかし3回繰り返されるたびに、その性質は暴力的なものから融和的なものに変わっているというのがポイントだと思うんですね。

渡邉

『シン・エヴァ』ではあの実写の宇部の街の中に、アニメのキャラクターが歩いているというのもすごく象徴的ですよね。90年代の旧劇場版のメッセージは「現実に帰れ」というものだったとよく言われますが、今回は現実に帰ったんだけど、そこにはアニメのキャラクターも拡張現実みたいに歩いているという形になっていて、もう少し重層的になっていると感じました。そこにはもしかしたら、アニメ制作者としての庵野さんの屈託も滲んでいるのかもしれない。

僕も同感で、ただ自分は庵野さん自身の屈託というよりは、社会の変化を反映したのかなと思いました。現在はVTuberとか、AdoさんやEveさんのようなボカロカルチャーから出てきたシンガーも含めて、人がキャラクターとしてのもうひとつの「分人」を生きることが可能になってきている。つまり「現実に帰れ」というメッセージが成立したのは、当時は虚構を現実の対立項として位置づけることが可能だったからで、いまや「虚構と現実は重ね合わせることができる」という風に、カルチャーや社会のほうが明らかに変わった。自分たちはそういう時代に生きているんだという事実が、あの終わり方に表れている感じがして。

渡邉

まったくその通りだと思います。例えば、「現実へ帰れ」と言われた時の「現実」というのは、社会学者の大澤真幸が『不可能性の時代』で1995年以降の時代精神(東浩紀のいう「動物の時代」ですね)を「不可能性の時代」と呼び、それを「現実への逃避」と言い換えた時の「現実」に対応しています。ジジェク風にいえば「虚構化しきれない残余」として露呈する「現実」ですね。いわばそれが旧劇場版の「観客席の映像」だった。

しかし、『シン・エヴァ』の実写とアニメキャラが混淆する風景は、僕もよく参照している「ポスト・ヒューマン」[2]とか「アクタント」[3]とか、まさにそういったものを彷彿とさせています。そこでは現実と虚構、人間とノンヒューマンが旧劇場版のように対立しておらず、ハイブリッドに混ざっている。僕があえて庵野さん自身の屈託という、個人の問題に引きつけたような言い方をしたのは、『シン・エヴァ』で示されているとされる「成熟」という主題も、見方を変えれば、そういう人間と「人間じゃないもの」が同居できるようになった2010年代以降のリアリティみたいなものを反映していると言えるんじゃないかと思ったからなんですよ。

[2]文字通りの意味は「人間以後(の存在)」。ここではマーベル映画におけるスーパーヒーローに代表される、VFXによって画面上で非-人間的な(3Dと実写とのハイブリッド的な)存在となった身体表象のことを指している。

[3]人類学者、ブルーノ・ラトゥールが提唱した「アクター・ネットワーク理論」の用語。人間も非人間的な「モノ」もひとしなみにネットワークを形成するノードとして捉える視点を表現している。

90年代とゼロ年代のアニメカルチャーで一番変わったのがまさに、虚構との距離感ということだと思っていて。『となりのトトロ』や『もののけ姫』、そして「エヴァ」といった90年代のヒットしたアニメに対して、「聖地巡礼」という文化はなかった。しかしゼロ年代に入ると、京都アニメーションなどの作品を中心として、「このアニメはここを舞台にしている」ということがリアルタイムの受容の中で楽しまれるようになった。作家の頭の中に描いていた絵、ペンで描く絵が動くというものから、カメラで撮影した現実の風景をパソコンに取り込んで二次元化したものをアニメーションと呼ぶようになった。新海さんも一貫して四ツ谷や新宿など中央線沿線の都心の風景を描いていますよね。『ほしのこえ』こそ脳内のイマジネーションを具現化した作品だと思いますが、基本的にはセカイ系から日常系へという流れの中で、都市をきらめかせた最大の作家として彼をとらえています。

渡邉

現代のアニメが表象するパラダイムの変遷を、注目するフェーズによって違った言い方で表現できますよね。例えば、サブカルチャー批評の一般的な見取り図では、ゼロ年代前半から後半へのトレンドの変化を「セカイ系」から「日常系」へ、というキーワードで括れる。しかし、これを柴さんがおっしゃったアニメが舞台とする風景との関係から捉えると、同じ変化がまた違った表現で考察できると思います。

セカイ系を論じるときにしばしば参照される、柄谷行人さんの「〈風景〉の発見」という議論がありますが[4]、そこでは現代のセカイ系につながるような「個人の内面」を近代文学に生成させたのは、非常に抽象的でありふれた〈風景〉なんだとされている。それは近代以前の文芸が描いた風景のような、観光名所的に有徴化されたコンテクストがないものだからこそ、逆説的にそれをまなざす主体に近代的な固有の内面を読者に見出させたのだと柄谷さんは言ったわけですね。そしてご指摘のように、日常系の作品は一方でアニメ聖地巡礼の流れと重なっている。だとすると、セカイ系から日常系への転換というのは、「非観光地=非現実的な風景」のアニメから「観光地的=現実的な風景」のアニメへの転換だということもできるでしょう。

思えば、新海も初期作では北海道や東北を思わせる土地をしばしば舞台にしましたが、それらはまさに国木田独歩が近代文学で発見した〈風景〉と同じ、抽象的でありふれた〈風景〉です。それが『言の葉の庭』や『君の名は。』では新宿御苑とか飛騨高山のようなみんなが知っている日常系的な観光地になる。新海アニメもいわば「日常系化」した風景になっていくわけです。アニメが描く虚構との距離感の変化ということでいうと、こうした点も重要ですね。

[4]柄谷の主著『日本近代文学の起源』第一章のタイトルでもある。

北出

確かに渡邉さんのおっしゃるように、初期の新海作品は後年のようにあからさまな観光地を舞台にはしていませんね。一方で、『ほしのこえ』から現実の風景をパソコンで取り込んで作るスタイルが変わっていないということも重要かなと。完全に新海さんがひとりで作っているという制約もあり、背景とかは写真素材から加工して作っている。完全にイマジネーションの産物というわけではなく、作家のプライベートな日常にすごく密接な風景を、デジタルにトレースするところからスタートしているんです。

その上でなぜ『ほしのこえ』がいまだに日常系の潮流とは切り離されて、特権的にセカイ系と言われるのかを考えてみたくて。私見では、やはりカット割りのテンポのよさや音楽の使い方が生む、独特のリリシズムにあると思うんですね。

アニメと音楽の関係を変えたBUMP OF CHICKEN

渡邉

新海作品の「ミュージックビデオ性」を語る上ではRADWIMPSより先に、『秒速5センチメートル』の 主題歌に起用された山崎まさよしの「One more time,One more chance」が外せませんね。この曲はセカイ系の文脈とはまったく関係のない文化の中で作られた楽曲ですが、非常にセカイ系的な感性、もしくは新海誠的な感性を凝縮したような曲であると思うんです。

北出

非常にわかります。要は「もし同じ時間を繰り返せたら」という可能世界的な、ループもの的な想像力ってことだと思うんですけど。『シン・エヴァ』のラストで流れる「One Last Kiss」とは字面も似ているし、対比させて考えてみたくもなりますね。

話が逸れますが、自分はまさにそれについて発見したことがあって。『シン・エヴァ』のラストでは「One Last Kiss」に続けて「Beautiful World (Da Capo Version)」が流れるわけですけど、オリジナルの「Beautiful World」から歌詞が削られているんです。では何が削られているのかというと、「どんなことでもやってみて 損をしたって 少し経験値あがる」という2行で。つまり『序』『破』の時点では宇多田ヒカルは、「エヴァ」というのをループ的な世界、東浩紀さんの言う「ゲーム的リアリズム」というか、一回死んでも次のプレイでその経験が残っていて、正しいルートを選べるというものだと解釈していた。しかし『Q』の「桜流し」を挟んで、今回(「初めから」を意味する)「Da Capo」バージョンでそのラインを消したということは、あの終わり方をした『シン・エヴァ』は、もはやループ的世界ではないと宇多田ヒカルが解釈しているということになる。

渡邉

なるほど……それは面白いですね! ちなみに、その「One more time~」が使われた新海の『秒速5センチメートル』も、エヴァの新劇場版が始まったのも同じ2007年なんですよ。しかも東浩紀さんの『ゲーム的リアリズムの誕生』が刊行されたのも、そして初音ミクがリリースされたのも2007年。そのくらいの時期にセカイ系について考えるときのひとつの切断線というか出発点があって、それが2021年に一巡したと考えるとひとつの歴史が描けそうな感じがしますね。

話を戻すと、新海誠は『秒速5センチメートル』では山崎まさよしの「One more time~」を、『言の葉の庭』では秦 基博による大江千里のカバー「Rain」を主題歌に起用している。けれど、それはあくまで過去の曲の引用であって、そこから『君の名は。』のRADWIMPSとの共作関係には大きな飛躍がある。なぜRADWIMPSは新海誠とパートナーを組む関係になれたのか。そこには川村元気のプロデューサーとしての才覚もありながら、いわば音楽とアニメの関係をめぐる転換点が、山崎まさよしとRADWIMPSの間にあったということだと思うんです。

渡邉

柴さんが参加されたボーカロイド音楽の歌詞についての対談[5]で、「物語音楽」というキーワードが出ていました。それこそ新海さんも小説を書くわけですが、音楽のノリに合わせてループしていくというよりも、あるひとつの不可逆的な物語を描く方向にリリックや歌詞が変化しているというのは、いったいどういう影響があってのことなんだろうと思ったのですが。

[5]「buzzG×柴那典が語り合う「歌詞表現が美しいボーカロイド楽曲」」Real Sound
https://realsound.jp/tech/2021/04/post-737959.html

そのことも含めて、「物語(アニメ)と音楽の関係」を大きく変えた存在がBUMP OF CHICKENというバンドなんです。歌詞表現についても、特にロックやポップスの分野においては、彼ら以前と以降とではっきりと分けられる。

渡邉

BUMP OF CHICKENのデビューって何年なんでしたっけ。

インディーズで1stアルバム『FLAME VAIN』を出したのが1999年で、シングル「ダイヤモンド」でメジャーデビューするのが2000年ですね。ちょうど90年代の終わり/ゼロ年代の始まりと重なっているんです。

つまり「One more time~」が非常に新海誠的な感性を凝縮した曲だったにもかかわらず、山崎まさよしが新海誠と一緒に作品を作る関係にはならなかったのは、彼が「BUMP OF CHICKEN以前」のミュージシャンだということに尽きると思うんですよ(山崎まさよしは1995年にメジャーデビュー)。そしてRADWIMPSは「BUMP OF CHICKEN以降」のミュージシャン。RADWIMPSは音楽的にBUMP OF CHICKENに影響を受けているわけではないですが、BUMP OF CHICKEN以降のJ-POP、邦ロックのシーンに登場してきたバンドだし、当然リスペクトもある。

で、BUMP OF CHICKEN以前/以降の大きな違いは、BUMP OF CHICKENの藤原基央さんが、アニメ・ゲーム的な想像力を原体験に持ったソングライターであるということだと思うんです。

渡邉

なるほど。具体的にはどういう体験なんですか?

僕が担当した藤原基央さんのインタビュー[6]で、「自分はパズーになりたかった」ということをおっしゃっているんですね。創作の原体験が、テレビで『天空の城ラピュタ』を観たことだと。そして『ドラゴンクエスト』シリーズや『ファイナルファンタジー』シリーズなどのRPGもプレイしていた。「彼ら(ゲームの主人公)にはその後の物語がきっと存在する。でも、それを知るすべは自分にはない。じゃあ、俺は作る人になればいいんだと思ったんです」と……つまり、藤原さんは結果的にミュージシャンになりましたが、もともとは漫画家やゲームクリエイターになる夢を持っていた。そういうタイプのミュージシャンが、特に日本の音楽シーンにおいて20年間トップアーティストとして走っているということがとても大きい。

[6]「「歌う先に“あの日の俺”がいる」BUMP OF CHICKEN藤原基央の創作の原点」Yahoo!ニュース
https://news.yahoo.co.jp/feature/1381/

渡邉

音楽で物語を表現するというと、じんさんの『カゲロウプロジェクト』(以下『カゲプロ』)とかにもつながる系譜があるんでしょうか。

あると思います。まずアニメと音楽の関係について言うと、90年代のアニソンって、物語の主題を表現していなかったんですよね。有名な例では、「アニメといったら『キャンディ・キャンディ』みたいなもの」と思って作った曲が、時代劇(『るろうに剣心 -明治剣客浪漫譚-』)の主題歌になってしまったJUDY AND MARYの「そばかす」。それくらいのことがまかり通っていたのが90年代なんですが、ゼロ年代以降のアニメ主題歌で、主題を表現していない曲というのはあり得ない。ミュージシャンのほうがアニメの原作を読み、それと自分の表現したいことのベン図のように重なりあう部分を歌にする。その流儀を明確に言語化しているのも藤原基央というソングライターなんです。「何より、ご一緒させていただく作品に対してのリスペクトがある。その上で、曲を書く時には、自分たちが表現するフィールドと先方が表現するフィールド、その円と円が重なる部分で曲を書こうと思っているんです」と。そんな彼の発想のあとに、すべてのロックバンドのアニメタイアップが続いている。

一方、BUMP OF CHICKENと同時代に登場してきた重要な存在にSound Horizonがいます。彼(主宰のRevo)は後のボカロカルチャーにもつながる同人音楽という出自で物語音楽というジャンルを提唱し、後にはLinked Horizonという形で物語と音楽のリンクを可視化した。

つまり新海誠とRADWIMPSをはじめとする現在のアニメと音楽の関係というのは、すべてBUMP OF CHICKENとSound Horizonがゼロ年代に変えたことの後にある。アマチュアベースのボカロカルチャーの中で、邦ロックをルーツにメディアミックス的な表現をした「カゲプロ」は、まさにその流れが生みだしたものと言えるわけです。

Flash動画が生んだ独特の表現

北出

「カゲプロ」はじんさんと(イラストレーター・動画制作者の)しづさんがほぼ一対一でコラボレーションする形から、次第に大きなメディアミックスへと発展していきました。2014年には『メカクシティアクターズ』というテレビアニメも放送されましたが、このアニメについてじんさんは後のインタビュー[]で「大人に言われるがままにやっていたら、自分の望んだ形にならなかった」と振り返られていて。単に「大人が悪い」的な話ではなく、大人に判断をゆだねてしまった自分自身に対する反省という文脈での発言ではあるんですけど、いわばセカイ系的な「個」の結びつきの間に、大文字の「社会」が間に入ることで何かが変わってしまった象徴的な話として読めるなと、印象に残っているんです。

[7]「『カゲプロ』作者じん ロングインタビュー 「大人を喜ばせてもしょうがない」」KAI-YOU.net
https://kai-you.net/article/35324

いま『カゲプロ』について振り返ってみたとき大きいなと思うのは、「(メカクシ団という)子供たちの集団が世界の命運を変える」という、物語の内実が非常にセカイ系的だったということです。じんさんは当時そういう物語を作っていることについて「子供たちに爆弾を作って配っている」と表現していたんですけど、実際にAdoさんは小学生のときに『カゲプロ』に衝撃を受けたのをきっかけにボカロシーンの存在を知り、今では作り手に回っている。

しかも『カゲプロ』はリブートしますからね。最近もリブート絡みでじんさんに取材したんですけど[8]、先ほど北出さんがおっしゃったようなことも全部飲み込んだ上で、これからは何年、何十年かかっても自分主導で完結させるんだと語ってくださって、熱かったですよ。

[8]「じん×白神真志朗×ゆーまお、『カゲロウプロジェクト』とそれぞれが捉える10年の変化 ボカロシーンの渦中から見てきたもの」Real Sound
https://realsound.jp/2021/05/post-759420.html

なお2025年現在この企画は、『カゲプロ』の版権を現在保有しているのが原作者であるじんにも不明であるという事態に陥っていることが判明し、立ち消えになってしまっている。以下の記事を参照。

「じん「カゲプロ」の版権はどこに? マネジメント会社「詳細を認知しておりません」」KAI-YOU
https://kai-you.net/article/85391

渡邉

セカイ系とボカロカルチャー・ネット動画にそんなつながりがあったんだと、柴さんのお話に大変刺激を受けています。そこでお伺いしたいのがもうひとつ、「リリックビデオ」というものについてです。たとえば『ヒプノシスマイク』のアニメ版(『「ヒプノシスマイク-Division Rap Battle-」Rhyme Anima』)の歌唱シーンで歌詞が次々に出てくるというのも、完全にその影響だという話を先日、ゼミの学生から聞きまして。もちろんジャニーズとかの、メジャーで作られている動画はもう少し映像も付いていますが、アマチュアベースで作られているリリックビデオって、本当に歌詞がリズミカルに出るだけという感じじゃないですか。ああいった、ある種のイメージの「貧しさ」がアリになった背景には、一体どういった流れがあるのかなと。

実は、そこにもBUMP OF CHICKENが関わってくるんですよ。順を追って説明すると、まず日本におけるリリックビデオ的なものの原点は、おそらくゼロ年代初頭のFlashアニメーションなんです。Flashアニメは「吉野家コピペ」とか、2ちゃんねる(当時)で流通するネタ的なアスキーアートに音をつけたものが主流でした。しかし、その中で唯一と言っていいほどエモーショナルな受容をされていたものがあって、それが「ラフ・メイカー」とか「K」とか、BUMP OF CHICKENの初期の楽曲にアニメーションをつけたものだったんです。そしてこれは超重要な証言なんですが、米津玄師さんはFlashアニメを通してBUMP OF CHICKENを知っているんですよ[9]

[9]「BUMP OF CHICKEN がいて、RADWIMPSがいて、自分がいること。|米津玄師、心論。」cakes(サイト閉鎖のため、ウェブアーカイブへのリンクを添付)
https://web.archive.org/web/20210614191315/https://cakes.mu/posts/11821

渡邉

へえ、そうなんですか!

しかも米津さんも、もともとは漫画家になりたかったと公言しているロックミュージシャンなんですね。そういう意味でも、BUMP OF CHICKENの直系の系譜に当たるのが米津玄師だといえる。

Flash文化はゼロ年代に入ってニコニコ動画に流入していき、より音楽との同期が洗練された先に初音ミクも登場して、文化のカンブリア爆発が起こりました。最近インタビューした18歳くらいのバンドマンが「中学の頃は周りの子たちが聴いてるアニソンとかボカロを普通に聴いてたんですけど、高校生になってブラックミュージックに目覚めて」といったことを言っていて非常に印象的だったんですが、今の中高生にとっての「みんなが聴いている」ものといえばJ-POPや邦楽ではなく、ボカロ音楽になっている。いわば「ボカロネイティブ」とでも呼ぶべき世代がすでに出現しているんです。

つまり、2007年の動画サイト以降の表現は、基本的にアマチュアがやっていたことなので、当然ある種の資本と技術の不足……渡邉さんの表現でいえば「貧しい」ところからスタートしていた。その条件をベースにした音楽とアニメーションの結託があって、十数年経ってYOASOBIなどにつながる、現在の日本のカルチャーの大きな流れを作り出しているわけです。

渡邉

となると、リリックビデオ的な「貧しさ」こそが日本特有のミュージックビデオの表現と言えるんでしょうか。

リリックビデオ自体はEDM系を中心に、世界中であるんですよね。ただそこにアニメ的な想像力が組み合わさったものは、ポーター・ロビンソンなどの例外を除いてほとんどない。海外から見たときに日本のカルチャーとして重要なのはやはり「アニメである」ということで、黒人ラッパーに『ドラゴンボール』を好んでいる人が多いという話もそうですが、現実社会の厳しさからの逃避先である「ここではないどこか」としての日本アニメ、という受容のされ方があるみたいです。自分が取材した中だと、パトリック・バートレイ Jr.さんというジャズプレイヤーの方が実体験として話してくれました[10]

[10]「日本のアニメとゲームが、アメリカ黒人社会の少年と世界を繋いだ」KAI-YOU.net
https://kai-you.net/article/73491

北出

『ドラゴンボール』の内容がセカイ系と関係あるかはともかく、アニメという表現自体に「この現実」から距離を取る効果がある、という視点は重要ですね。余談ですが、「この現実」からの距離をフィクションによっていかにして取るかというのは、自分がこの本を企画するにあたってのテーマのひとつでもありました。

変化する「音」と「映像」の主従関係

自分からも渡邉さんにお聞きしたかったことがあって。最近バズった記事で、Netflixで映画を倍速で観る人たちについて書かれたものがありましたよね[11]。この記事の是非というよりは、映画を早送りで観るという行為そのものを研究者の方がどう捉えているのかなと。

[11]「「映画を早送りで観る人たち」の出現が示す、恐ろしい未来」現代ビジネス
https://gendai.ismedia.jp/articles/81647

渡邉

元シネフィル(?)としての僕個人としては、その記事でも書かれていたように、作り手が考えているであろう「なぜここで20秒の間を取ったのか」とか「ここに伏線がある」とかいった演出上の企図を、視聴者が速さを変えたりすることでなし崩しにしてしまうのはどうなんだ、という思いはあります。今年問題になった「ファスト映画」もそうですよね。

しかしそんなことを言っても、カルチャーはどんどん変化していくものですからね。例えば、いま海外の一部の映画批評や映画研究の世界で言われる「パズル映画」というコンセプトもその流れと関係しています。パズル映画というのは、一番わかりやすいのはクリストファー・ノーランの『メメント』とか『TENET』みたいな作品ですけど、まさにパズルのように時間軸がバラバラに断片化されて、伏線がすごくたくさんあるような映画のことです。90年代のタランティーノ作品とか、『君の名は。』もそういう作品だと思いますけど、この手の作品が2000年代以降増えている。要するに、映画はもはやスクリーンで観る機会というのが極端に減っていて、その代わり人々はDVDやサブスクで自在に作品を早戻しや早送りをして鑑賞できるようになっているから、それを前提にした映画が出てきているんだという議論なんですね。すでに作り手の側から現代の視聴環境を受け止めた上での作品が出てきているというわけです。

『君の名は。』の快感って、やっぱりRADWIMPSの音楽がずっと流れているからこそのものなので、あの作品には1.5倍速の快感というのが存在しないんですよね。そういう意味では、時間のコントロールを視聴者側が持ってしまうNetflix的な環境において音楽の持つ役割は、映画にとって以前より大きくなっているのかもしれないなと思うんです。パズル映画というのもひとつの方法だと思いますけど、音楽をうまく活用することはこれからの映像作家にますます問われていくんじゃないかと。

渡邉

おっしゃる通りで、映画研究や映画批評の世界でも最近、映像以外の「聴覚」(音楽)や「触覚」の要素の持つ重要さは注目されてきています。逆に、蓮實重彦というかつてシネフィルの教祖的存在だった映画批評家は、「あらゆる映画はサイレント映画だ」なんて極論を言って、映像以外のものはすべて付属物なんだということまで言ったわけですけど、もはやそんな構えは通用しないのではないかと思いますね。

そういえば僕がいま編集委員をやっている日本映像学会の学会誌『映像学』106号で、写真研究者の前川修さんがコロナ禍で一気に社会に普及したZoomについて、こんなことを書いていました。Zoomの本質は、「『映像』ではなく、『音声』による通話である。言わば映像が付随した『電話』に過ぎない――しかもきわめて出来の悪い電話である」と[12]。つまり、Zoomというのは映像メディアではなく、本質的には音声メディアだという指摘で、これは鋭いなと思いました。今は、映像文化全般において映像と音の主従関係が逆転してきているんじゃないかなと思います。

[12]前川修「コロナの写真映像?」、『映像学』第106号(日本映像学会、2021年)所収
https://www.jstage.jst.go.jp/article/eizogaku/106/0/106_010607/_article/-char/ja

いろいろな方に取材してわかったのですが、現在のボカロ周りでのミュージックビデオ制作は、ミュージシャンが作ったデモ音源をもとにイラストレーターが絵を描き、それに触発されて楽曲の構成や歌詞も変わっていくというスタイルのものが多い。つまりプリプロダクション段階でイラスト・映像が作られる形になっているんだそうです。こういう例を聞くと、音と映像の主従関係が逆転したというよりは、主従関係自体がなくなりつつあると言ったほうが近いのかもしれない。

ちなみにZoomについては、「これって『画面共有のできる電話』なんだな」と思った機会があって。須田景凪さん、Eveさん、古川本舗さん、ヨルシカのn-bunaさん……ボカロカルチャーの中で音楽を表現してきた人たちにリモートで話を聞くと、「10年前に音楽を作り始めたときからイラストレーターとSkypeで話し合ったりチャットで画面を共有しながら制作をしていたので、リモート取材のような形はむしろ懐かしい」とおっしゃるんです。

つまり彼らの話からわかるのは、インターネットを中心に活動してきたミュージシャンは、2010年代の半ばからすでにアフターコロナ的な制作環境を生きていたということで。アイドルなど、コロナ禍で活動が大きく制限されてしまった人たちがいた一方で、のびのびと今まで通りの活動ができていた人たちもいる。YOASOBIのブレイクのような現象も、その延長上にあると言えるわけです。

渡邉

なるほど。ちなみに純粋な興味なんですが、柴さんがコロナ禍で取材されたボカロ周りの人の中で、一番若い人となるとどのくらいの年齢になるんですか。

最近ソニーミュージック主催のPuzzle Projectという、インターネットを中心に活動しているクリエイターを発掘するオーディション的なプロジェクトの取材をしたんですが[13]、15歳の選出者がいたんですよ。

[13]「Puzzle Projectとは? YOASOBIの仕掛け人と3人の10代が語る」CINRA
https://www.cinra.net/interview/202104-puzzleproject_ymmts

渡邉

15歳! そういう方って、動画のイラストとかはどうやって調達しているんでしょう。

最初は自分のiPhoneで撮った写真一枚とかで曲をアップして、それをサンプルとしてイラストレーターにDMを送って既存のイラストを借りるところから始まり、徐々に信頼関係を積み重ねていって最終的にオリジナルのイラストを描いてもらう、という風に発展することが多いみたいです。憧れのイラストレーターさんにオリジナルのイラストを描き下ろしてもらう、というのがひとつのモチベーションになっているみたいですね。そしてイラストをもらってからは自分でAdobe Premireなどの動画編集ソフトを使って、曲と同期するリリックをイラストの上に重ねているんだそうです。

北出

いまPuzzle Projectの公式サイト(https://puzzle-project.jp/)を見てびっくりしたんですけど、キャッチフレーズが「あなたの“セカイ”を世界に広げるプロジェクト」なんです(笑)。ボカロ関連だと初音ミクを開発しているクリプトン社公式の『プロジェクトセカイ カラフルステージ! feat.初音ミク』というゲームもあって、ゲーム内に収録される楽曲を選ぶコンペティション(「楽曲コンテスト プロセカNEXT」)も定期的に行われていたりするんですよね。カタカナの「セカイ」がこのカルチャー周辺で、「個」のクリエイティブを賞揚する言葉として採用され始めている印象があります。

『プロジェクトセカイ』は現在進行形の「セカイ系」を象徴するとても重要なゲームですね。舞台は現代の東京で、登場するオリジナルキャラクターも10代の少年少女。それ以前の初音ミクのゲームではバーチャルな歌姫である初音ミク自身がアイコンになっていたんですが、『プロジェクトセカイ』ではあくまでオリジナルキャラクターが主人公になっています。その少年少女が生きる東京に「セカイ」と呼ばれる異世界が重なり合うように存在していて、初音ミクはその「セカイ」に誘う存在として描かれている。作り手の近藤裕一郎(Colorful Palette)さんや佐々木渉さん(クリプトン・フューチャー・メディア)にも取材したんですが[14]、相当綿密に世界観を練り上げていったようです。そして、そこに楽曲が使われることで新しい世代のボカロPたちが注目を集めるようになっている。

[14]「ボカロ文化の歴史を次世代に繋ぐ試み 『プロジェクトセカイ』鼎談」CINRA
https://www.cinra.net/interview/202104-projectsekai

北出

ただ、デジタル編集の普遍化によって「個」の力がエンパワーメントされやすくなった一方で、いま10代のクリエイターたちはソーシャルメディアにどっぷりな世代でもあるわけですよね。いかにバズるかというか、いい絵師さんを見つけて依頼するということも含めて、セルフプロデュース的なセンスも必要になる。かつてのセカイ系にあった内省的な要素と、ソーシャル的にうまく立ち回ることのバランスをとるのは、人によってはすごく難しいことなんじゃないか。

僕は基本的に楽観的かつ新しいものが一番面白いと思う人間なので、Puzzle Projectや『プロジェクトセカイ』が、一番新しいセカイ系的な感性の回路と言えるんじゃないかと思っています。ボカロネイティブでありソーシャルネイティブでもある世代が、音楽の作り手とイラストの作り手が直接結びつく「カゲプロ」以降の環境を当たり前に生きているということは、単純にワクワクすることだなと。

北出さんにはぜひこの「ど~ぱみん」さんという人の「蚕の冠」という曲のミュージックビデオを見てほしいですね。彼もPuzzle Projectの選出者のひとりで、ビートマニアなどのゲーム音楽をルーツにEDMっぽい音楽を作っているんですけど、曲を聴いてすごくセカイ系的だなと思ったところがあるんです。EDMのいわゆるドロップと言われる箇所……DJが「ここで盛り上がりますよ」と溜めて溜めて、「3,2,1ドーン!」となるところで、画面いっぱいに文字が出てくる。EDMというもっとも「陽キャ」的なパーティ音楽を使って、すごく内面的な表現をやっているんですね。

北出

いま、ちょっと見てみたんですけど、やばいですね。明朝体の文字が画面いっぱいにバーッと出てきて……これ、もうほとんど『エヴァ』旧劇場版のポスターじゃないですか。

これが「あなたの“セカイ”を世界に広げるプロジェクト」に選ばれているんですよ。

北出

いい話ですね……!

「セカイ系文化論」に向けて

渡邉

ところで、僕は映画も好きだったんですが、同時に昔から文学青年でもあって。20歳くらいのときに、西尾維新さん、佐藤友哉さん、舞城王太郎さんといった、いわゆる「ファウスト系」と呼ばれる同時代の作家の小説がすごく好きだったんですよ。西尾さんの『戯言シリーズ』、佐藤さんの『鏡家サーガ』、舞城さんの『奈津川サーガ』など、まさに「これは僕たちの世代の文学運動だ!」と思って、すごく熱中して読みました。ただ、それ以前だと第三の新人とかダブル村上、J文学といった、ある世代を象徴する文学運動って、「ファウスト系」以降なくなってしまった感覚があったんですよね。

で、今日の対談では2007年という年が何回か指標的に出されましたが、実はそういった文学運動が一旦終わったのも、2007年だと僕は思っています。その符牒はたくさんあって、桜庭一樹が『私の男』で直木賞を獲ってメジャーになったとか、伊藤計劃と円城塔が現れたとか、西尾維新が『〈物語〉シリーズ』を始めてターニングポイントになったとか。評論でも東浩紀さんの『ゲーム的リアリズムの誕生』が刊行されたり、宇野常寛さんの『ゼロ年代の想像力』の元になる連載が始まったり。そして、まさにその年に初音ミクとニコニコ動画が現れたわけですよね。自分も昔『カゲロウデイズ』みたいな「ボカロ小説」が、かつての「ファウスト系」的な文学的想像力の今日的な形なんじゃないかと書いたことがあるんですけど[15]、今日の柴さんのお話を聞いたら、まさにそこでひとつの文化運動が起こっていたんだなという感じがします。

[15]渡邉大輔「ミステリとボカロ小説(謎のリアリティ第13回)」、『ジャーロ』NO.49 冬号(光文社、2013年)所収

YOASOBIの母体になったソニーミュージックによるmonogatary.comという投稿サイト(https://monogatary.com/)は、まさにそういったことを企業主導でやろうとしているものと言えますね。サイトに小説を投稿するとそれが楽曲化され、誰もがクリエイターになれるという可能性が開かれている。Puzzle Projectもこのサイトと連動しているし、EveとCloverWorksが始めた「WonderWord」というプロジェクト(https://wonderword.jp/)もこのサイトで作品を募集しています。つまり、西尾維新になるべき人たちを講談社のような出版社ではなく、ソニーミュージックという音楽の会社が吸収する仕組みになっているんですね。次世代の文学的・物語的想像力を、音楽がいま強烈に引き寄せようとしている。

monogatary.comを立ち上げたソニーミュージックの屋代陽平さんという方も、あるいは『プロジェクトセカイ』の近藤裕一郎さんも(2021年現在)30代前半で、ボカロカルチャーをボカロPやリスナーとして通って、それが商業的なところでコンフリクトした歴史も知っている。そういう世代の企業側のプロデューサーが、アマチュアイズムをもった物語的想像力を「セカイ」から世界に広げるということをやり始めているのが2020年代なんですね。

北出

ビジネス的にもクリエイター的にも健全な形が作られるというのは良いことだと思うんですけど、個々の作品性としてどう評価できるのかも考えていきたいところですね。

いずれも名前に「夜」が入ることから、2020年に「夜好性」という言葉で括られたYOASOBI・ずっと真夜中でいいのに。・ヨルシカがいますが、この3組の差異を起点にするといい気がします。

YOASOBIはソニーミュージックによるmonogatary.comという、企業発信のプロジェクトに連動して打ち出されたユニットで、物語音楽ではあるものの、中心人物のAyaseさんは一次的な物語の創作者ではなく、あくまで他人が作った物語を解釈する能力が人並み外れて優れていたがゆえに成功した。ずっと真夜中でいいのに。は、ACAねさんというシンガーを中心にしたプロジェクトで、MVは全てアニメーションで顔を出さないというイメージ戦略を徹底していますが、彼女自身が作詞作曲をして歌っている。所属事務所はワタナベエンターテインメントで、ユニバーサルミュージックが最初からバックアップしていて、言ってしまえばプロフェッショナルな制作体制が最初から確立されていたシンガーソングライターとしての活動スタイルといえます。つまり、ずっと真夜中でいいのに。には物語音楽としての側面はない。

対してヨルシカはn-bunaさんという、ひとりの強烈な物語作家が主導している。インタビューも何度かさせてもらっていますが、彼はまさに渡邉さんがおっしゃっていたような、ゼロ年代でいう西尾維新的な文学作家ですね。2020年にリリースした『盗作』というアルバムには実際に小説を書き下ろしていますし、世が世なら『ファウスト』が見出していたであろう表現者だと思います。

北出

なるほど。単に「ボカロカルチャーに近いところから出てきて、アニメーションのミュージックビデオを発表している」という理由で一緒くたにしてしまうと、見落としてしまうものがある。

渡邉

話を聞いていて、東浩紀さんが昔ある同人誌のインタビュー[16]で「(『ファウスト』編集長の)太田克史くんは[編註:同誌の執筆陣に]ミュージシャとか呼びたかったらしい」と話されていたのを思い出しました。音楽と映像の話から始まって、思いがけず文学とのつながりまで見えてきましたが……もしかして、ここ20年間くらいを総括する新しいカルチャー史観が生まれようとしているんじゃないですか?

[16]「東浩紀インタビュー「はてな・文学・80年代――真のハイブリッドとは何か――」」、『Kluster』(モスコミューン出版部、2003年)所収

確かに。セカイ系って、「エヴァ」とか『ほしのこえ』とかで止まっている話じゃないんだなと改めて思いました。ヨルシカ以降、『プロジェクトセカイ』以降の新しいセカイ系の誕生に、いま立ち会っているのかもしれない。

渡邉

歴史を描くには僕らくらいの世代が一番目配りのきく、いいポジションの世代なのかもしれないですね、Flashも知ってるし、新しいところにも手が届くしという。

作り手でもfhána[17]の佐藤純一さんとか、この辺りの文脈を押さえた上で活躍されている方がいますしね。

[17]2025年現在、佐藤純一、kevin mitsunaga、towanaの3名で活動中の音楽ユニット。ゼロ年代以降のアニソンおよびインターネット発音楽シーンの文脈を取り入れた作品を手がけており、佐藤は個人として声優・アーティストへの楽曲提供でも活躍している。

なお、北出が編集し2023年に刊行した同人誌『ferne ZWEI』では、佐藤と同じくアニソン業界で活躍する作曲家のebaとの対談が掲載されている。
https://booth.pm/ja/items/5875179

渡邉

いろいろなところにリファーできそうな話なので、ぜひ新書にまとめていただきたい(笑)。

北出

自分は1988年生まれで、米津玄師さんやじんさんと同世代なんですが、彼らのようなまさに「ポストメディア」時代のミュージシャンの持つ「文学性」を、音楽以外のジャンルと交差させる言葉がないとずっと感じてきました。今日のお話の中には、まさにそのためのヒントがたくさんあったと思いますし、「セカイ系」という切り口でなければそれが為し得なかったということにも、我ながら手ごたえを感じています。個人的にももっともっと練り上げていきたいですし、今後とも継続して議論を深めていくことができればうれしく思います。本日は、ありがとうございました!