生成AIと戦争の時代に、〈セカイ系〉は今なお有効な概念か?――北出栞『「世界の終わり」を紡ぐあなたへ』刊行記念イベント@DOMMUNE 第2部

北出栞 + 布施琳太郎 + 藤田直哉

本記事は2024年5月にDOMMUNEで配信された、北出栞『「世界の終わり」を紡ぐあなたへ――デジタルテクノロジーと「切なさ」の編集術』 刊行記念イベントの音声を書き起こし、再構成を加えたものです(DOMMUNE許諾済)。

第2部では、アーティストの布施琳太郎さんと批評家の藤田直哉さんをお迎えして、同書の〈セカイ系〉というキーワードの扱い方が過去の〈セカイ系〉論とどのように異なるのかや、ゲストとホストそれぞれの、実作者/非実作者、「ゼロ年代批評」の当事者/非当事者といった立場に基づく対立点などをめぐり話題が展開しました。

同書をお読みの方も、これからお読みになるという方も、ぜひお楽しみください。

布施琳太郎によるプレゼン――北出の本は「経済」の話をしていない?

北出

トーク第2部は三者鼎談という形で、アーティストの布施琳太郎さんと批評家の藤田直哉さんを迎えてお送りします。第1部の内容も踏まえつつ、〈セカイ系〉が批評的な文脈でどういう風に扱われてきたのかについても話していければなと。

お二人をお迎えした経緯ですが、布施さんが少し前に『ラブレターの書き方』という批評的な著作を出されておりまして、藤田さんが僕の本と布施さんの本に言及しつつ、〈セカイ系〉を現在の形にアップデートしたような論者が同時期に現れてきたことを興味深く見ているとおっしゃっていたということがあります。

まず、布施さんと藤田さんが僕の本を読みつつ、ご自身の〈セカイ系〉に対する考え方をプレゼンとして持ってきてくださっているとのことなので、スライドを見つつトークに入っていければと思います。

布施

ではまず僕から。僕自身、「新しい孤独」というタイトルの文章で批評の書き手としてはデビューさせてもらったんですけど、そういう「孤独」や「沈黙」とかいった言葉選びとか、現代のインターネットに対する問題意識などで重なり合う部分がある本だなと思いつつ、自分なりのちょっとした問題提起みたいなものも持ってきました。

まずシンプルに、これまで〈セカイ系〉論で扱われる対象は文芸・アニメ・映画・ゲームといったものがどうしても多かった中で、この本では音楽の話、あるいは音楽に付随するアートワークやミュージックビデオの話を多くしていて。そういうこれまでの〈セカイ系〉論では作品としてカウントされていなかったようなものを論じているのが面白いなと思いつつ、前半と後半でちょっと違う文脈の話がなされているのかなと思って。

まず前半では、〈セカイ系〉的な作品=セカイを作るっていうことについて論じる中で、オペレーターとしての作者みたいな話が出てきたりしている。コンピュータのインターフェースに触るときに立ち上がる「半透明」な感覚を作品化する作り手たちの話として、庵野秀明、新海誠、麻枝准の三名が出てくると。

一方で後半は、初音ミクの話は今日の前半でもされていましたけど、やっぱりryoさんのインタビューを引いたところが印象的で。自分ではない何者かとなる、つまり作曲家の主体性の移行を手助けする「歌う装置」としての初音ミクだったり、それが前提になった中で活動しているYOASOBIだったり、あるいはその次の章で扱われているTohjiなどのヒップホップアーティストの話だったり、〈セカイ系〉が「私」や実存の話として論じられているところがある。

まとめると、コンピュータのインターフェースという装置を通じて生成する、二つのセカイというのが論じられた本だなと。前半では作品=セカイが、後半では私という主体=セカイが論じられている。これまで〈セカイ系〉って言葉でみんなが説明できていた、君と僕の恋愛関係があって、中間項が欠如していて……という定義から離れたところで、僕たちはこの本を読んだときに、〈セカイ系〉の新しい定義を持ち帰ることができてしまうんですね。それをメディア論的と言ってもいいのかもしれないんですけど。

その上で、アニメ、映画、音楽……いろんな産業の話を横断的にしてるなと思ったんですね。そこで思ったのが、産業の話をしているにもかかわらず、経済の話をしていないということで。本の中で僕のことも扱ってくださってるので、余計にそう思ったところもあるんですけど。

アーティストとして展覧会を作ったり作品を作ったりするときに、やっぱりお金の問題って避けられないんです。単純に制作費がかかるってこととか、入場料が1000円だったら3000人はこないとリクープできないぞ、とか。自分の感覚としては、そういった経済の問題を論じないことによって、一冊の本を立ち上げているようにも感じられたんです。

つまり、漢字の「世界」と「私」の短絡こそが、この本を貫く〈セカイ系〉のプレゼンテーションの枠組みになっていて。ある面では本書自体が〈セカイ系〉を論じるというよりも、〈セカイ系〉作品そのもののようにも感じる。そういう本でもあるなと思ったんですね。

〈セカイ系〉的な作品=セカイと、主体である私=セカイという構図があったときに、この二つのセカイの短絡が〈セカイ系〉に対する批判の典型的な例だったってことは忘れちゃいけないよなと。本の中では「作品=世界」と「作者=私」を分けるという話も出てきていますが、「世界」と「私」はどうやって交通できるんだろう、ということについても、もう少し考えたいなと読み終えて思いました。

ただ、この本の内容自体が、さっき言った「経済」の話を考えるヒントになる部分もあると思うんです。遠藤薫さんという方が書いた『廃墟で歌う天使――ベンヤミン複製技術時代の芸術作品を読み直す』という本があるんですけど、そこでは初音ミクをはじめとした、20世紀前半の機械人形、ヴォコーダーとかも含めたことを論じる中で、複製技術を機械的な再生産、「メカニカル・プロダクション」と定義した上で、「ピア・プロダクション」という言葉が使われているんですね。

遠藤薫『廃墟で歌う天使――ベンヤミン複製技術時代の芸術作品を読み直す』(現代書館、2013年)

遠藤薫『廃墟で歌う天使――ベンヤミン複製技術時代の芸術作品を読み直す』(現代書館、2013年)

ピアというのは、ピア・ツー・ピアという言葉から来ています。一般的なインターネットは、一個のコンピューターサーバーがあって、クライアントサーバーがあって、そこにパソコンやスマホからアクセスするクライアント方式なのに対して、ピア・ツー・ピアというのは、Web3とかブロックチェーンで言われるような技術にも繋がるもので、中央集権的なサーバーが一元的に管理するんじゃなくて、一個一個のコンピュータが相互接続されることでネットワークを実現するというもので、その一個一個のコンピュータのことをピアと呼ぶと。遠藤さんは、初音ミクが可能にしたのは、自己複製的で同時多発的な、つまりピアな作り手同士が連携して生産を行うということだと言っていて、これはすごく面白いなと。

2000年代における〈セカイ系〉的な作品が、初音ミクをはじめとした歌う装置によるポスト・ボカロ的な想像力と合流しながら、〈セカイ系〉的な主体を準備したんだ、という北出さんの本の論旨に従うなら、むしろ作品=セカイ/私=セカイの分節のためにこそ、〈セカイ系〉という言葉が改めて有効性を持って現れるんじゃないか。SNSの中で僕たちが分節できなくなっていることを分節するためにこそ、この本を活用できるんじゃないか。

私とあなたは互いに独立して違う存在だし、私の作品というのもまた私とは違う存在である。それを媒介してくれる初音ミクだったり、あるいはもっと直接的に、貨幣もそういうものだと思いますけど、それらをひとつの天使的な想像力として、つまり社会の下の、ベースにあるものとして捉えることができるのではないか。そんな風に〈セカイ系〉的な想像力を、産業を超えて物を作ったり理解するための枠組みにできたら魅力的だなと感じながら読ませていただきました。

北出

ありがとうございます。藤田さんは、今の布施さんのお話を聞いていかがでしょう。僕と布施さんの本に対して、両者とも〈セカイ系〉を当時のテクノロジーと不可分なものとして捉える着眼点をもっているところに、ひとつの同時代的な現象を見ているという話をされていたと思うんですが。

藤田

まず自己紹介からすると、僕は批評をやっていまして。2008年にデビューして、その直後に東浩紀さんのゼロアカ道場というところに参加していました。そして2009年には、仲間と『社会は存在しない――セカイ系文化論』という評論の本を作りまして。『セカイ系とは何か』を書かれた前島賢さんとか、東さんのやっていたメルマガ「波状言論」にいたメンバーが中心となって結成された限界研というサークルで、自分たちの同時代を体現するような青春文学としてのセカイ系、それを自分たちで論じるんだという思いで作ったんですね。

限界小説研究会(編)『社会は存在しない――セカイ系文化論』(南雲堂、2009年)

限界小説研究会(編)『社会は存在しない――セカイ系文化論』(南雲堂、2009年)

その中で、例えば今は主にコンテンツビジネス領域のライターとして活躍されている飯田一史さんが、〈セカイ系〉のふわっとした感じっていうのはシリコンバレー精神を経由して、セカンド・サマー・オブ・ラブとかの多幸感のあるエモい音楽の文化が入ってきたものなんじゃないかと論じていたり、あるいは映画評論家の渡邉大輔さんは、岩井俊二の『リリイ・シュシュのすべて』のような、ウェブ上の匿名掲示板の向こうに誰かを希求するような感覚と〈セカイ系〉は繋がってるんじゃないか、といったことを書いていたんです。だから北出さんの本がそういった議論に近い感覚で〈セカイ系〉を解釈しているのは面白かった。

その上で、布施さんと北出さんには、似ているなと思うところと違うなと思うところがある。二人とも、インターネットという環境が前提としてあって、そこにある種のフラットなリアリティ、クリアで透明的なリアリティを見ているというのは共通していますよね。そして、今のSNS前提のインターネットを良くないと思っていて、それより前のインターネットが良いと思っている節がある。では何が良くないかというと、布施さんの言葉では「孤独」がなくなっている。つまり人と繋がりすぎていて、自己だけに沈潜するような感覚がない。だから「新しい孤独」を発明しなければいけないんだと布施さんは言っている。この「孤独」への向き合い方が違うんじゃないかと思うんですよ。

布施さんがコロナのときに作った「隔離式濃厚接触室」という、一度にひとりしかアクセスできないウェブサイトがありましたよね。前略プロフとか匿名掲示板、あるいは匿名のブログが全盛のときには、ある種の親密性や本音みたいなもの、言い換えればエモい感じをみんなが共有していた。だけどSNS時代に名前を出すと炎上のリスクもあり、リンチを受けるし、当然本音も出せない。そのような分離と断絶を前提とした上で、過去にはあったエモさ、心が濃厚につながった「感じ」をどう回復するかが主題となっている。二人でいることの孤独、みたいなことをキーワードとしつつ、作品としてはプログラムを書くような仕方でやっていて、これはすごい作家だなと思った。インフラレベルへの意識が強く、そこに介入できる作家なのが強いと思うんですよ。

で、北出さんの場合はちょっとそれとは違って、もうちょっとポストヒューマンに近いというか。布施さんの場合のほうがまだ人間として誰かと繋がるみたいな、エモさが残っている気がするんですよ。北出さんの場合はボカロと自分、もしくは自分とウェブの境界線が曖昧になるような、マシンと自分が一体となるかのような無機的感覚に一元化したいという欲望がどうもあるように感じて。

布施

僕としては『ラブレターの書き方』という本は、人のぬくもりみたいなものを取り戻そうというよりは、今アーティストというか、物を作る人間がすべき仕事は、作品というより作品経験が立ち上がる環境自体を制作することなんじゃないかと考えていて、そうするとどうしても「触れる」部分の話になる。たとえばトラックパッドに触れるとか、プログラムを打ち込むとか。つまり北出さんの本で言うところのインターフェースという装置の再設計を、アーティストとして実践しながらできないかという問題意識に基づいて書いた本だったりしますね。

布施琳太郎『ラブレターの書き方』(晶文社、2023年)

布施琳太郎『ラブレターの書き方』(晶文社、2023年)

北出

布施さんも含めたいわゆるメディアアートの領域で活動する人たちって、プログラムだけではなくて、ディスプレイであったり電源ケーブルであったり、モノを組み立てて展示を作るじゃないですか。インスピレーション的なところ以上に、僕はそういう具体的な営みにロマン主義的なものを感じていて、作り手自身もモノ化するとか、機械化するみたいな話をしがちなのかなという気もするんですよね。

だから布施さんの作品を扱った章でも、布施さんを「造形作家」として捉えようみたいなことを言っていて。たとえば近年、布施さんが取り組んでいる詩という芸術にしても、一行に何文字配置するかとか、空白をどれくらい開けるかとか、オブジェクトとして作り込むという面があると思うんですけど、そこから美術批評の文脈では論じられていない布施さん像を描き出せるんじゃないかと思って。

布施

僕の中ではむしろ、それこそ生成AIが出てきたときに「作品はオブジェクトではない」ということを考えるようになったんですね。オブジェクト指向プログラミングには、インスタンスという、オブジェクトとして呼び出せる命令みたいな単位があって、それをどうやって組み合わせるかという発想があります。つまりひとつのインスタンスはひとつの意味や機能を持っているわけですけど、僕が生成AIをやばいなって思うのは、言葉をオブジェクトとしてじゃなくてベクトルとして空間の中に位置づけるという点なんですね。

例えば、「猫」って言葉は「Cat」という意味で使うこともできるし、ひらがなで「ねこ」って書けば、「ごめんねこの間は」みたいに、「猫=Cat」とは関係ない文脈の中にも置くこともできる。そして生成AIは「猫」という漢字と「ねこ」という音を対応させるような仕方ではなくて、「このねこの絵かわいい」と「ごめんねこの間は」みたいな、「猫」の意味がある文とない文、どちらのパターンも大量に学習させて、その傾向から確率的に答えを導き出すようなことをやる。

つまり、大量の文のビッグデータから作られた言語の意味の空間と、大量の画像から作られたイメージの意味の空間、その二つの空間の中にいったん言葉がベクトルとして、つまり向きと近さと近接性を持ったものとして置かれるからこそ、同じプロンプトから違うイメージが出てきてしまうという現象が起こるわけです。

そして、ベクトルによって表現された空間をコンピュータで扱えるようになった時代に、作品というものはオブジェクトのままでいいんだろうか、みたいなことを僕は考えるんです。僕がラブレターなどのコミュニケーションに興味があるのは、作品というのもある種のプロンプトのように、人と人との間にある言葉を、つまりあるひとつのベクトルを呼び出すものにすぎなくなっていくんじゃないかという感覚があるからで。

僕は、ベクトル呼び出し的な作品を前提としたときに、生成AIが画像を出してくれることの驚きと、芸術作品に触れたり、一篇の詩を読んだときに「これは私の人生の物語なんじゃないか」って思ってしまう感覚との違いというのは何なんだろうみたいなことに興味がある。オブジェクトからベクトルへ、コンピュータのインターフェースが変わった時代の芸術って何だろうという問題意識があるからこそ、作品というものをオブジェクトで説明したらもったいないなと思いながら今の北出さんのお話を聞いていましたね。

ちなみに、言語の話が出たので藤田さんに聞いてみたいんですけど、いわゆるゼロ年代批評や〈セカイ系〉についての論説って、精神分析学とすごく距離が近かった瞬間があったように思うんです。そして北出さんは、意識的にそうじゃないスタンスを取ろうとしてるのかなと思いながら読んでいたんですよ。

藤田

生成AI時代に、作品がオブジェクトじゃなくてベクトルに近いものになっていくという感覚・問題意識はとても面白いですね。その議論は、解釈学とか、受容理論とか、読書行為論の言っていることに近いかもしれない。作品の本体は、物質としてのそれではなくて、読者や鑑賞者との相互作用の中に生まれる経験の中にある、というような考えですけど。

精神分析について、東浩紀さんがラカンを使いつつ論じたのが典型的なのでそのまま説明すると、まず触れているメディアによって人間の内面の構造が変わるという前提がある。その上で、近代というのは映画や本が主要なメディアで、そこには中心が存在する。一点透視図法がモデルで、人間の内面も中心を持って構造化される。インターネットやパソコンの画面というのは中心がない世界だから、人間の主体とか内面のあり方も中心がないような、分裂した構造になるんじゃないか。それがポストモダンの新たな主体のあり方なんじゃないか、といった議論をしていましたね。シェリー・タークルあたりは、確かそれとドゥルーズを結びつけたりしていた。

布施

なるほど。自分が精神分析で面白いと思ったのは、ラカンが『エクリ』の日本語版の序文で、「日本人はこの本を読まなくて大丈夫です」って話をしていたということなんです。どういうことかというと、日本語には音読みと訓読みという仕組みがある。たとえば「よむ」と言ったときに、文を「読む」だったらreadだし、歌を「詠む」だったらwriteになるといったように、その音にどんな漢字が当てられるのかによって、裏面で注釈がなされるということがある。文字のかたち自体に意味がある記号=漢字と、音訓による二重構造の中で思考している人間はこの本を読む必要がないんだと。

そして北出さんの本というのは日本文化論でもあると思うんですよね。精神分析から距離を取りつつ〈セカイ系〉を論じながら、歌の話になっていくというのは、まさにreadとwriteが区別できないようなところで考えてしまう人たちの文化を論じるということでもある気がする。

僕が自分の本で、「誤変換」という言葉で言いたかったのも、ある意味そういう話なんです。言葉やイメージがベクトルとしてしか現れない、オブジェクトやモノとして出会うことができない文化史みたいなものがあると考えたときに、それはラブレターにおける、あなたと私の間にある言葉の「オブジェクトになれなさ」みたいなものを考えることなんじゃないかと。『ラブレターの書き方』は、そういう僕の思想を形にした本だったんじゃないかって、改めて気づかされた気がします。

藤田直哉のプレゼン――北出の「子供性の擁護」の是非をめぐって

北出

非常に興味深い論点が出たところなのですが、藤田さんもスライドを用意してくださっているとのことなので、僕の本を読んでどう思われたのかというお話をお聞きしたいなと。

藤田

はい。自分は「セカイ系と無機的な美学について」というタイトルで発表させていただきます。僕は『新海誠論』という本を2年ぐらい前に出しまして、その中で北出さんのツイートを引用させてもらってたりもするんですよ。北出さんの今回の本も僕のこの本の一部を引用していて、メディアテクノロジーにおけるある種の感覚を表現した作家として、新海誠を読むというところは賛同してくれてるんですよね。

その上で、僕の方法論や主張とはまったく逆のことをおっしゃっていて。それが悪いというのではなくて、違いがあるということはいいことだという前提の上で、生産的な対話ができたらと思って論点をいくつか持ってきました。

北出さんの本の特徴は、〈セカイ系〉作品の、半透明でクリアで切ない美的な質、これに徹底的にこだわったところだと思います。メディアテクノロジーとの関連による無機的な美学をきちんと言語化しようとしている。

かつての〈セカイ系〉論って、新自由主義の広がりにおいて社会保障の領域が脱落したこととか、95年以降の不況によって、社会というものをもう見たくないというニーズで受け入れられたところがある。そういった過去の文脈に拘泥せずに、メディアテクノロジーとの関係に徹底したところが面白いと思います。

その上で、明確な違いがある。まずひとつが、僕は『新海誠論』や『シン・エヴァンゲリオン論』で、アニメという集団創作の芸術について、あえて近代的な純文学的で私小説的な作家論の方法論を持ち込んで論じた。北出さんは逆で、作家ではなくオペレーターなんだと。メディアテクノロジーを繋ぎ合わせたりくっつけたりするニュートラルな作り手、つまり自分の思想とか考えとか感情を表現しようとする近代的な作家像ではない像を提示しようとしている。ボカロの章で言っている「セカイ系的主体」というのも、ボカロを使いながらある種機械と無機物と一体となった、ポストヒューマン的主体のことを言っていますよね。

藤田直哉『新海誠論』(作品社、2022年)

藤田直哉『新海誠論』(作品社、2022年)

藤田直哉『シン・エヴァンゲリオン論』(河出新書、2021年)

藤田直哉『シン・エヴァンゲリオン論』(河出新書、2021年)

二つ目の違いは、ひとつ目の違いとも関係しますが、北出さんは無機的な志向があるのに対し、僕はあえて有機的な主体とか生々しい生の回復の志向を主張している。新海誠の最近の3本は社会とか現実とか、生命のことを重視してるし、『エヴァ』の新劇場版シリーズも使徒とかに代表される無機的なもの、あるいは世界を無機的なものにしてしまいたい碇ゲンドウとそうではない側の争いで、有機的な生命を擁護しようとする側が勝つという話になっている。無機的なもの、オペレーター的主体とそうじゃない近代的なヒューマンなものの抗争という主題が世界的にあって――『マトリックス』三部作とか、『アベンジャーズ/エイジ・オブ・ウルトロン』とかもそうだと思うけど――僕は有機性とか社会とか、そちらを回復する方向を肯定していました。そこが大きく違いますね。

そしてもう一点、社会と歴史と政治をどう扱うか。僕の本では〈セカイ系〉的な閉じた感性の中に社会とか歴史とか政治をどう扱うかということを模索してるのが、『君の名は。』以降の新海誠だと論じている。実際、新海さんは東日本大震災を意識していますし、『天気の子』では気候変動だけでなく、貧困の問題も描いている。

北出さんは本の最後で、「ソーシャルメディアによって現地の映像が無際限に拡散され、フェイク映像もその中には混じり、現在という時代に起きていることを真面目に把握しようとするほど心身をすり減らしてしまうこともまた問題になっている以上、〈セカイ系〉的な曖昧さの中にとどまることは、ある種のオルタナティブな倫理の提案になるのではないか」と言っていますね。

それはそれで理屈としてはわかる。一方で、それでいいんだろうか。たとえばネットを見れば真偽がわからなくなったり、悲惨なニュースが多くて心がすり減るのは間違いないんだけど、かといって直視しなくてもいいのだろうか。『マウリポリの20日』という映画のように、きちんとした取材に基づいたドキュメンタリーを観れば、ウクライナで起きている悲惨な出来事がフェイクではなく現実なんだってことがはっきりわかるわけですよ。それをロシアのマスメディアが「これは役者が演技している、作り物なんだ」とか言っていることのほうが大きな問題だと思うんです。

北出

ありがとうございます。図式的には概ねその通りだなと思いつつ、取り急ぎ言っておきたいのは、今起きている戦争の実態とかを「見なくていい」とは思ってないってことですね。自分は大学の専攻はジャーナリズムで、ニュースバリューというものがいかに組織的に作られたもので、それをどう受け止めるべきかというメディアリテラシー論などもひと通り学んだ上で今回の本を書いてはいて。そういう前提を明記したほうがいいんじゃないかって話はあるかもしれないですけど、問題提起としてより比重を置きたいのは、現代のメディアテクノロジーはそういう知識が通用しないくらいダイレクトに、心にダメージを負わせる映像が届いてしまうってことなんです。

第1部の柴さんの話で、今のソーシャルメディアは「アルゴリズムメディア」なんだという指摘がありましたが、本当にその通りで、報道機関による価値づけ以上に、「多くのユーザーに見られているものが、今見るべきものだ」という情報環境になってしまっているじゃないですか。内容の重要性以上に、単にショッキングな投稿ほど目につきやすくなっているような状況で。

だから、ある意味藤田さんみたいな論者はすでにたくさんいるってことに信頼を置いた上で、あえてこういうことを書いてる部分はあります。ひとりくらいこういうことを言う人間がいてもいいんじゃないかって。ちょっとずるい回答かもしれないですけど。

藤田

たとえばガザの映像をずっと観続けていたら、やっぱり僕も気が滅入るから、それだけでも駄目だとは思います。だけど全部見ないようにするのでも駄目で、相対化してシニシズムになってもダメで、どのバランスがいいのかというのは、多分いろんなクリエイターも模索してるんじゃないでしょうか。たとえば新海誠の『すずめの戸締まり』も、現実の悲惨な震災のことを描きつつ、美しく綺麗な画面やエモい物語と両立しているわけです。何かそういう新しいバランスを発明することがが、エンターテイメントやアートに求められているんでしょうね。

北出

まさにそうですね。「曖昧さの中にとどまる」というのは、完全に情報をシャットアウトするってことではないんですよ。本を通してキーワードとして出しているのが「レイヤー」という話で。ソフトウェアを使って映像を作るにもレイヤーというインターフェースがあるし、DTMで音楽を作る際にも、やっぱりトラックと呼ばれるレイヤー的な単位を縦に重ねて作るって形になってますよね。

そしてこれは作る側だけでもなく、鑑賞する側にも言える。InstagramやTikTokの機能として、「フィルター」という形でレイヤーが実装されてるわけだけど、どんなフィルターを使うかが、非言語的なメッセージを伝えたりもするんですよね。つまり、内容としてちゃんと信頼できるかだけじゃなくて、それがどう表現されているか、例えばテロップがどういうフォントで表現されてるかとか、そういう情報の重ね方でも伝わり方が違ってきちゃったりする。そういう意味でのメディアリテラシーが今は必要なのではないかと。

だから「とどまる」って表現が適切ではなかったのかもしれないですけど、大量かつ高速に押し寄せてくる情報に対して、受け手側が適宜フィルターやレイヤーを挟んで調整するみたいな距離の取り方があるだろうということが、より正確には言いたかったことですね。

藤田

フィルターやレイヤーを「誰が」セッティングするのかという問題があるとも思うんです。ロシアとか中国では国家がそれをやってしまうし、日本やアメリカでも、プラットフォームがそれをアルゴリズムで勝手にやってしまいますよね。アメリカではTikTokが、情報工作の舞台にされていると騒ぎになっていて、禁止法が出来ています。見えるものと見えないものを操作されることの問題はあると思うんです。

あと、もう一個の北出さんと僕の対立ポイントとして、北出さんは割と子供の楽園にとどまりたいという部分があるように感じたんですけど、僕は逆なんですね。

つまり、オタクはオタクなりに成熟を志向した方がいいんじゃないかと思ってるんです。最近の新海誠も庵野秀明も細田守も、自分なりの作家性のあるアニメ映画監督はみんなそういうことを言ってると思う。他者とか世界に開かれたり、生物や世界への愛とか責任、有機的な生命の肯定をしたほうがいいんじゃないの、社会や歴史や政治と接続することを肯定したほうがいいんじゃないのと思うんです。

なぜかというと、これからAIの時代になるわけですよね。AIはシンギュラリティ(知能爆発)を起こすだろうと言われている。MITの教授のマックス・テグマークという人はシンギュラリティを超えたAIは人類より頭がいいんだから、人類にはもう制御できないという前提に立った上で、荒唐無稽に思えるシナリオを大真面目に予測している。AIが人類を全滅させるか、動物園のように人類を生かすか、あるいは人類が生身の有機的な身体を捨てて情報化するか……と、こういう話をMITの教授が、テック企業のトップたちと真面目に議論しているんですよ。国連もIAEA、つまり核開発を抑止する仕組みをモデルにして、シンギュラリティを防ぐ仕組みを作ると言っています。

そういう中で、人間の生身の有機体とかを、大したことない、無機的なものでいいんだっていう情報を発信し続けると、AIがそれを学習してしまう。そうするとAIは我々を生かす必要がないと思ってしまうでしょう(笑)。だから僕はそうじゃない発言をいっぱいしておいたほうがいいと思っていて。

自己とメディアテクノロジーが一体となってしまうような感覚というのは、僕もそういうことを志向する部分はあるし、もともとはそういう感覚が好きだった側の人間だけど、そういうフロイトが言うところのニルヴァーナ原則こそが世界を悪くしたのかもしれないという反省があったりして。匿名になることで、自己と他者と世界――国家とか庶民とか――と一体となっているのだ、という幻想の楽さに溺れて、おかしな思想になっているように見える同世代もたくさん目につく。人間でなければ責任や倫理の主体にもなれないし、そういった価値観を持つ必要もないということになる。ニルヴァーナ原則は無機物になること、死の欲動そのものであって、帰結は「死」ですからね。だから僕はやっぱりヒューマンな主体が要るんじゃないか、と思ったりするんです。ここでいうヒューマンであるということは、面倒で鬱陶しい対人関係や交渉や衝突を繰り返さざるを得ない、ということですね。

ゼロ年代のオタク文化のことを、キース・ヴィンセントは「日本的未成熟」と呼んだけれど、その弊害も上のような観点から批判されている中で、北出さんが子供性を擁護するというのは新鮮に感じました。それで、最初から批判ありきというつもりではなく、どういうロジックで肯定しているのかを改めて説明してもらえたらなと思うんですが。

北出

本の中ではサンプリング音楽の話を例に出しているんですけど、もともとサンプリングという文化は著作権の問題であったり、文脈的な必然性を踏まえなければならないというマナー上の問題もあるから、ある種そこで社会と出会っていたわけですよね。

でも今ってサンプルストアという、最初から「これを素材にして音楽を作ってください」という形で、たとえばドラムの「カンッ」という音だけを単品で買えるサービスがあったりするんですよ。子供がレゴブロックとかに触れてカチャカチャいじってみて楽しい、みたいな感覚から生まれた作品が、アルゴリズムの力も手伝って世の中的に大きなインパクトを持つような時代に、そういう作品について語る言葉がないのはまずいんじゃないかって問題意識があったんですよね。

藤田

『Minecraft』とかも流行ってるし、そういう風にデスクトップ的に用意されてるものを組み合わせるクリエイティビティみたいなものは主流化していて、それが浸透した世代が次々出てきているのも確かだし、これからどんどん出てくるのも確か。そのロジックとか美学を提示したのはいいことだと思います。

僕が近代とポストモダンの主体の違いの話で思い出すのは、東浩紀さんが『セカイからもっと近くに』で言っている、オタク系文化というのは、社会とか歴史とかの矛盾や葛藤を意識しないようにさせる文化だという話。そういう矛盾や葛藤、複雑な衝突をオペラや演劇はずっと描いてきた。そのような「対立と葛藤」を美の中心としない物語として現れたのが多分〈セカイ系〉で、社会とぶつかって葛藤するみたいなことを忌避する人たちの美学だと僕は思ってるんですよ。そっちのほうがフラットで気持ち良いのはわかるけど、リアルに戦争が起きるかもしれないこれからの時代、本当にそれで大丈夫なんだろうかと心配になるんですよ。

東浩紀『セカイからもっと近くに――現実から切り離された文学の諸問題』(東京創元社、2013年)

東浩紀『セカイからもっと近くに――現実から切り離された文学の諸問題』(東京創元社、2013年)

北出

シリアスなドキュメンタリーと現実から距離をとる〈セカイ系〉、単純にどちらもあっていいと僕は思うんですよね。文学フリマで知り合った学生の方とかと話すと、東さんの『動物化するポストモダン』や『ゲーム的リアリズムの誕生』を何かの拍子で手に取って、「かっけー!」と思って読むなんてことが、未だにあるらしいと気づくんですよ。それこそ「データベース」の話ってサンプリング音楽にも通ずるし、東さんを読んで、この理論をDTMに応用して音楽を作ってみようみたいに思う人がゼロではないんです。

それに東さんって、当時くだらないものとされていた恋愛アドベンチャーとかライトノベルを論じることによって、ある種のユースカルチャーの擁護者でもあったわけですよね。東さんがそのままユースカルチャーの擁護者だった未来があったとしたら、僕はその役目を担いたい、みたいな気持ちがあって。

だからこの本で書いている主体性の議論というのは、社会参加の話だったり、歴史的なスパンでの話というよりは、あくまでコンピュータで作品を作ることと、インターネットを介して作品を鑑賞することについての限定的な話のつもりで。そういうテクノロジー環境で育った人たちが歴史や社会とどのように関係を持つのかという話は、著作として今後著すかはともかく、また別途考えてみたいという感じです。

藤田

なるほど。新刊の『現代ネット政治=文化論』で書いたけど、僕はそのようなゼロ年代のコンピュータやネットが齎した新しい感覚、そこから帰結する革命や希望に賭けた身として、その敗北というかな、醜悪な帰結に幻滅してウンザリしているところがあるので、その差があるのかもしれないですね。

メディアとプラットフォームの今後をめぐって

布施

北出さんには東浩紀さん以外に、この本を書く中である種のアンビバレンスを持ちつつ、単に引用するとかではない形で意識している論者は、どなたかいたりするんですか。

北出

人ではないんですけど、布施さんも寄稿されているdistance.mediaというウェブメディアで過去記事のアーカイブが公開されている、NTT出版の『InterCommunication』という雑誌がありますよね。東さんのサイバースペース論が連載されていたのもこの雑誌ですが、あの哲学とアートとテクノロジーが一体化して語られているような感じを受け継ぎたいという気持ちはありますね。

布施

なるほど、すごくわかります。今、「𝕏」になったツイッターとか、Adobeだってそうですけど、僕たちのもの作りとか作品受容とかコミュニケーションが、資本やシステムを握っている誰かの気分で破壊されたり、同じような質感のものをもう作れなくなってしまうかもしれないみたいなことってあるわけで。

『InterCommunication』の時代というのは、もう少しイニシアチブがユーザー、北出さんの言い方ではオペレーター側にあったはずで、そのイニシアチブを握れる部分と握れない部分の緊張感が、物を作ることの喜びとなっていたのが多分90年代とかで。

藤田

『InterCommunication』は僕も好きで、ICCにもよく通っていたけど、あそこにあった、知的な瀟洒さというか、クリアな感じは、実際にネットがもたらした今の現実にはほぼなくなってしまっていますよね。

『InterCommunication』を出していたのはNTTで、つまり高速通信網の広告媒体という目的もあった。この議論の文脈で言えば、物理的なインフラそのものの側ですよね。だから、インターネットが普及した今の「現実」の観点から、『InterCommunication』的なものを照射することには批評性があるようにも思うんです。多分、僕はICC的なクリアさに趣味的には惹かれつつ、そうならなかった現実に対する批評として、最近のネットのグロテスクさを抉る文章を書いている気がする(笑)。だから、それを継ごうとしている北出さんのことは応援したいし、今後この問題も受け止めた上で展開するロジックで説得してほしい。

ところで、北出さんは、今布施さんがおっしゃったようなプラットフォームによるコントロールの問題についてはどう思いますか。

北出

プラットフォームは基本的に、ソーシャルネットワークでもアマゾンでも何でも、使用するにあたってアカウントという単位に紐づけられますよね。そして、アルゴリズムによって最適化された広告収益によって成り立っている。広告には自分の行動履歴が反映されるわけだから、「私」というものがフィードバック的に増幅される。だから、そこからいかに逃れることができるのか、いかにして「私」ではない存在になれるのか、みたいな話を自分はしがちですね。

布施

数年前に北出さんの本の表紙を描いてる米澤柊さんと僕と、詩人の最果タヒさんとミュージシャンの長谷川白紙さんの4人で、NTTのICCでオンライン・セッション「はなして」というものをやらせてもらったのを思い出しました。僕と最果さんがテキスト上で対談するんですけど、そこに米澤さんのライブペインティングと、長谷川白紙さんのライブ演奏も並列にあるというもので。音声や画面を共有できるチャットサービスを使いながら、それをYouTubeで配信しました。

トークという形式において絶対に避けられないのは、今もまさにそうですけど、固有名が喋っているってことですよね。ICCの時に考えていたのは、これはただのオンライントークに伴奏がついたようなイベントではないんだから、トークというものの前提も考え直したほうがいいよねということで、僕と最果さんの発言を、どちらの発言かわからないようにしたんです。今、ここにある声や言葉と身体の繋がりが、うまく読み取れないということ自体が言葉の空間になったりすることがある、ということを僕自身は示したかった。他の演者には違う意図があるとは思いますが。

藤田

布施さんの試みはとても面白いと思うし、そういう「私」のあり方を複雑にしていき、新しい帯域を開発していくことには基本的に賛同しかない。人類に新しい可能性を増やす試みですからね。

北出

その上で、藤田さんは「あえて」作家論的なアプローチをとっている、ということになるのでしょうか。

藤田

メディア環境の変化によって、身体やアイデンティティがバラバラになったり、多層化したりしているということはわかるし、デビュー当初は僕もそういうことをよく書いていました。しかし、今はそれが人間の精神的な健康や社会にとっていいものなのか、よくわからないなと今は思っている。身体と私が一対一対応しないような環境になっていることを前提とした上で、それと相補的に機能する「私」の座を強調したいと思うんです。

最終的な判断の審級としての「私」はどうやっても残る。小林秀雄が言っている「私」というのもそういうことで、つまり一度社会化されたあとの再帰的な「私」ということです。「私」をなくそうとして客観性に向かおうとしても最後に残る一手、外在的な根拠に頼ることのできない最終的な判断の根拠、それを小林は「私」と呼んでいる。

多分、ソフトウェアなどをオペレートしつつも、ある趣味や判断を生得的にか成育歴的にか文化的にか持ってしまっている「この私」というのは、消えないんじゃないか。そこを透明化せず引き受けるほうがいいのかな、と僕は思っています。庵野秀明の「作家性」だって、最近はそういう意味での「判断」の主体に近いと思う。

無機的でクリアで抽象的な世界に、「私」や「身体」を意識しないで没入し一体化したいという感覚も欲望もよくわかるんです。趣味のレベルでは、明らかに僕はそっちに近い。しかし、そういう風に身体や自己を透明化することこそが、近年のフェミニズムの立場からの批判の通り、ある種の無感覚や暴力を生んでいるということも認識せざるを得ないと感じるんですよ。自分ももう歳をとって、身体も故障してきて、老いて死んでいくのは他の誰でもなく「この私」であることの不可避性を自覚せざるを得なくなったからかもしれないですけどね。

ともあれ、判断の座としての「私」は、北出さんの議論を受け入れたとしても、まだ残るのだろうと思います。

布施

そうですよね。北出さんはソフトウェアと協働することによって「私」が消失するんじゃないかということをおっしゃっていて、感覚的にはわかる部分もありつつ、実作者として作品を発表し、批評されることもある立場からすると、そう簡単なものでもないぞとも思う。先ほどのオンライン・セッションの試みもそうですけど、どうやっても避けられない「私」という作者性があることを引き受けつつ、いろんな方法でずらす実験を僕自身はしてるつもりだし、僕以外のいろんな方々も試してるんじゃないかなということは言い添えておきたいです。

そういう観点から北出さんの活動で興味深いなと思うのは、ご自身の同人誌でインタビューの編集もされていると思うんですけど、そこでも編集者である北出さんによる最後の一手、つまり判断というものがありますよね。誰かの言葉を世に出すことと、自分の言葉を世に出すことの間で、北出さんも反復横跳びしていると思うんです。この本で描き出そうとしている感覚的な話と、そういう編集者と書き手を兼ねた活動は対応しているところがあるんじゃないか。なので、今回は単著という形でしたけど、いつか北出さんが編集したインタビュー集みたいなものも読んでみたいなと思いましたね。