身体・光・イノセンス――BUMP OF CHICKEN試論
北出栞
光を背負う天使
「BUMP OF CHICKEN TOUR 2017-2018 PATHFINDER」。アルバムのリリースタイミングではない時期に、「何も背負わない」[1]を掲げて始まったこのツアーのファイナル公演でしかし、彼らはLEDスクリーンが象る「光の十字架」を背負っていた[2]。その瞬間、巨大なアリーナ会場がひとつの「聖堂」へと変わる。集まったオーディエンスは、敬虔な信徒だ。BUMP OF CHICKENというバンドの、だろうか? むしろ筆者が思ったのは、彼らこそが「音楽という神」の声を伝えるメッセンジャー、天使のような存在なのではないかということだった。
古来より天使とは、霊と肉の中間に位置するがゆえに、神と人の間を仲介する媒介者=メディアであった。人の身でありながら、天使になろうとすることの(不)可能性……このテーマをめぐって、BUMP OF CHICKENを論じる本稿は展開する。主なアプローチとしては、メンバーのインタビューを紐解きつつ、ステージ演出の変化なども含めたバンドの来歴を整理することで、彼らが持つ特異な「楽曲至上主義」という価値観を明らかにしていく。
[1]『BUMP OF CHICKEN TOUR 2017-2018 PATHFINDER SAITAMA SUPER ARENA』Blu-ray商品説明欄より。
https://store.toysfactory.co.jp/pc/syousai.asp?item=TFXQ-78165
[2]同ライブのBlu-ray/DVDスポット映像の0:40~を参照。
https://www.youtube.com/watch?v=4LX6rMJQlXU
「シェルター」としての音楽
BUMP OF CHICKEN(以下BUMP)は、以下の4人からなるバンドである。
藤原基央(ボーカル/ギター)
増川弘明(ギター)
直井由文(ベース)
升秀夫(ドラムス)
メンバー全員が1979年生まれで、千葉県の佐倉市出身。4人全員が幼稚園からの幼馴染である。ソングライティングを手がけるのはもっぱらボーカル/ギターの藤原。飲食店を営む直井の実家に集まって、楽器の練習をするところからバンドはスタートした。初の巻頭特集が組まれた『ROCKIN’ON JAPAN』でインタビュアーの鹿野淳は、憧れのバンドのポスターは貼られていないが、「攻殻機動隊とスポーンとエヴァ(のポスター)はある」直井の部屋の様子を切り取っている。「“ロック”って言葉や“ロックバンド”って言葉がメンバーからも出てこないし、あまりにも出てこないから俺からもすごく出しづらい」[3]とも。「ロックサウンドではあると思うけど――音楽。〔…〕ジャンルじゃなくてミュージック。ロックでもポップでも、そういうのは俺は知らないけど、とにかく俺らがやったことはミュージック」[4]とは、メジャー1stアルバム『jupiter』リリース時の藤原の言葉だ。ちなみに彼らの主な音楽的影響源としては、ブルース、カントリー、サザンロックなどアメリカのルーツ・ロック、『ファイナルファンタジー』や『ドラゴンクエスト』などファンタジーRPGのサウンドトラック、グリーン・デイ、ニルヴァーナなどのパンク、オルタナティブ・ロックといったものがこれまでに挙げられている。
BUMPのメンバーは自分たちの関係性をよく「シェルター」に喩える。初期のライブでは場違いな箇所で声を上げたり手拍子をするオーディエンスに対して「聴き方」を諭す場面も見受けられるなど、非常に「閉じた」印象を与えるバンドであった[5]。そんな彼らがいかにして、35万人を動員するツアー[6]を実現するまでに「開かれて」いったのか。その軌跡を辿り直すことは、2000年代から2010年代に至るポップカルチャー批評の歩みをたどり直すことにもつながる。BUMPがインディーズ1stアルバム『FLAME VAIN』をリリースしたのは1999年で、翌2000年にはシングル「ダイヤモンド」でメジャーデビュー。2001年の2ndシングル「天体観測」のヒットで躍進を遂げ、現在に至るまでの彼らの軌跡は、ちょうど2000年代〜2010年代と丸ごと重なっているのだ。
2010年代のポップカルチャーが論じられる際に、「コンテンツからコミュニケーションへ」という変化がしばしば語られた。動画サイトやSNSの活況によって、コンテンツそのものよりコンテンツに対するユーザー同士のコミュニケーションが娯楽の中心をなすようになったというものだ。しかし物語評論家のさやわかによれば、こうした批評の側の問題設定こそが、2010年代に起きていたコンテンツそれ自体の更新を捉え損なってしまった原因だという。曰く、2000年代のコンテンツ批評が対象とするのが厳密なテクスト論の俎上に乗せられるコンテンツ――アニメや漫画、つまり視覚優位の――だったのに対して、2010年代の中心的なコンテンツは「時間性を持つジャンル」……つまり音楽や演劇、季節のイベントに合わせてストーリーが更新されるスマートフォン向けアプリゲームなどだったと。そんな2010年代のコンテンツを串刺しにする概念として、さやわかは「キャラ」に注目する。つまり、時間的な連続性の中で変化を内に含み込みつつも、同一的な存在として捉えることを可能にするものとしての「キャラ」に、である[7]。
音楽という時間芸術においては、二つの次元で「キャラ」を考えることができる。ひとつは、その歌い手自身の「キャラ」。もうひとつは、楽曲自体のサウンドや歌詞などに見られる「キャラ」だ。BUMPは、デビュー時からその二つが強く結びついていた。極端に抑えられたメディア露出ゆえに謎めいたイメージが醸成され、数少ない映像媒体であるMVも、メンバーの表情を正面から捉えたものは少ない[8]。2枚目のアルバム『THE LIVING DEAD』の組曲的な構成や初期の楽曲「ラフ・メイカー」「ダンデライオン」などに見られる寓話性の強い歌詞も相まって、「吟遊詩人」的なイメージをリスナーに印象づけた。
批評ユニット・TVODの著書『ポスト・サブカル焼け跡派』では、こうした彼らの「キャラ」性が「「貧しい」イノセンス」というキーワードでまとめられている。曰く、政治的・社会的なものから離脱しようとする若者の心性の受け皿として、和製RPGなどの「貧しい」リファレンスから構築されたBUMP作品の「ベタ」な物語性が寄与していたのではないかと。TVODの2人はそうしたBUMP(とそのファン)の特徴を否定も肯定もしないが、そこには「社会に接続されることへ大きな苦痛があるからこそ、政治性の無い表現にのめり込むことを必要としている」という、2000年代に特有の症候が表れていると論じている。
しかし、こうした総括には「ロックとはカウンターカルチャー(政治的な抵抗の象徴)である」という、素朴な理解が前提となっていることは否めない。そもそもメンバー自らも語っていたように、BUMPのメンバーには「自分たちはロックミュージシャンである」という意識が薄いのである。TVODの著書では通常ロックの文脈では扱われない人物(秋元康など)もキーパーソンとして取り上げられているが、基本的にはその時々の音楽を担ったアイコンを象徴的な「キャラ」として見立てることで、音楽コンテンツと社会がどのような関係を取り結んできたか、ということを浮き彫りにしようとするスタンスである。そこでBUMPがどのようなキャッチフレーズで紹介されているかというと「セカイ系J-ROCK」で、同書で採用されている「セカイ系」の定義は「「個人・社会・国家」という3領域のうち、「社会」という領域を捨象した世界観」というものだ。つまりここで「セカイ系J-ROCK」とは単純に、「BUMPの音楽には社会が描かれていない」ということを意味している。
「政治」や「社会」への目配せがないことに批判の目を向けることは簡単だ。しかしその視点からのみ語ることは、BUMPというバンドが何を目指し、いかにしてステージングの変化を遂げてきたかという視点が抜け落ちることになる。結論を先取りすれば、BUMPの歩みにおいて真に見るべきなのは、極端と言っていいほどの楽曲至上主義の下、曲を濁りなく伝達するための「透明な装置」に徹しようとする姿勢である。2010年代以降の彼らの足跡に見られる、拡大するライブ会場の規模感に応じたステージ演出の強化も、すべてがそのためにあったと考えられるのだ。
[3] 『ROCKIN’ ON JAPAN』2000年11月号より。
[4] 『ROCKIN’ ON JAPAN』2002年3月号より。
[5] インタビューでも過去を振り返る形で何度もメンバーから語られている他、筆者自身も2000年代初頭のライブに参加して感じたことである。
[6] 『BUMP OF CHICKEN TOUR 2019 aurora ark TOKYO DOME』Blu-ray商品説明欄より。
https://store.toysfactory.co.jp/pc/syousai.asp?item=TFXQ-78188
[7] さやわか『キャラの思考法: 現代文化論のアップグレード』(青土社、2015年)、「最初のあとがき 我々は何をアップグレードするのか」参照。
[8] 下記の分析も参照。「米津、ボカロ人気の背景をなす…「BUMP OF CHICKEN」その本当の魅力」現代ビジネス
https://gendai.ismedia.jp/articles/-/76468
「ロキノン系」と「自分語り」
BUMPの音楽のあり方を考えるにあたって、「ロキノン系」という言葉を避けて通ることはできない。「ロキノン」とは雑誌『ROCKIN’ON JAPAN』を刊行するロッキング・オン社の略称であり、つまりは同誌に取り上げられることの多い、日本のバンドやシンガーソングライターのことを指すのだが、BUMPはその代表格と、とりわけ2000年代を通じて見なされてきた。事実、新譜が出るたびに巻頭特集が組まれてきたし、同社が主催するフェスにおいても、何度となくヘッドライナー(トリ)を務めてきた。
人々が「ロキノン系」と言う場合、多くは「自分語りが激しい」という揶揄のニュアンスが込められている。同誌はミュージシャンのパーソナルな部分に踏み込む「2万字インタビュー」を売りにしていて、世間一般からはあまり「ロック」のイメージで捉えられていないようなミュージシャンでも、「これはロックだ」と断定してかかるようなところがある(過去には浜崎あゆみや平手友梨奈が表紙を飾ったこともある)。「自分語りが激しい」のはもっぱらインタビュアーの側であり、「2万字インタビュー」に関しても、ミュージシャンは問われたから答えているにすぎない。
しかしそうした誤解を踏まえてなお、BUMPこそは「ロキノン系」と呼ぶべき存在であると筆者は主張したい。それはBUMP自身が「自分語りが激しい」、すなわち押し付けがましいメッセージ性を発するバンドだということではなく、むしろリスナーの「自分語り」を誘発するメディア的な性質を、彼らの楽曲が持っているという意味においてである。
ここで、ロッキング・オン社の来歴をたどり直す必要がある。ミニコミとしてスタートした元祖『ロッキング・オン』は、渋谷陽一・松村雄策・橘川幸夫らが編集・執筆の中心を担いつつも、あくまで「投稿雑誌」という建付けだった。ロッキング・オンを離れた後、誌面のすべてが読者からの投稿で構成された雑誌『ポンプ』を創刊した橘川は、その回顧録の中で、あるネットユーザーの「ロキノン系」を橘川のスタンスに代表させる投稿[9]を引用しつつ「なるほど、今、言われている『ロキノン』とは、僕のことであったようだ」と述べている。こうした「読者が主役」を旨とする姿勢は橘川離脱後のロッキング・オン社にも確かに息づいており、たとえば2016年の『ROCKIN’ ON JAPAN』増刊号の中で、同社主催のフェス参加者の声を集めたコーナーを「この夏、奇跡の4日間を作り上げた「主役」たちの声を掲載」との見出しで掲載していたり[10]、2017年には投稿サイト「音楽文」を開設するなど、現在に至るまで「ロックを通して自分を語る・ひとりひとりが物語の主人公になれる」場所を作るという点において一貫している。
そして、BUMPのメンバーがインタビューでたびたび口にするのも「(リスナーに)楽曲の主人公になってほしい」ということなのである。
「BUMP OF CHICKENの曲は情熱的だ、とか、雑誌で大袈裟に書かれることが多くて、うっとうしいなあって思ってた時期、たしかにあったんですよ。でも、俺たちは俺たちでやりたいことをやってるからいいか、って最近は思うようになった。結局、伝えたいことは歌の中にしかないってことに気付いたんです。俺たちは和音とメロディーとリズムで、いちばん気持ちのいいところを探しているだけ。そういう意味でBUMP OF CHICKENの曲は童謡なんです。〈あなたの生活のBGMになりたい〉って意味でも、聴く側はその人なりのエゴで聴いてほしいって意味でもね」[11]
「この曲を書く時僕はこうだったんだなんて言うけど、そんなの全然知らないままでいいから、曲と聴いてくれた人だけの物語が、そこで終わるのが一番望ましいなと思っていて。僕らはそれに対して勝手にいろんな思いがある場合もあるけど、そこをどうするかっていうのは、聴いてくれる人の自由で。〔…〕その曲の中で自分が主人公になってくれるっていうんだったらこの上ない喜びですよ。曲なんて、あなたの人生のBGMでいいんで、聴いて、忘れてくれたってかまわないし」[12]
前者は2002年、後者は2014年の藤原の発言である。10年以上の時期を隔てた2つのインタビューで、「あなたの生活/人生のBGM」というフレーズが出てきていることは見逃せない。この発想はソングライターの藤原が、ゲームのサウンドトラックに音楽的なルーツを持つことにも関係している。藤原は「MOTOO FUJIWARA」名義でRPG『テイルズ オブ ジ アビス』のBGMを手がけたこともあるが、その際のインタビューで「聴いた人が主人公になる」音楽としてのBGMの機能について語っている。
「BGMの定義って、まず主役たるもの――今回はゲームですよね――があって、そのバック・グラウンド・ミュージックなわけでしょ?僕、いつも言っているじゃないですか。BUMP OF CHICKENの曲は聴いた人が主人公になってくれれば良いと思っている。つまり、受け手にとってのBGMになってくれて構わないと思っているんです」[13]
では、そんなBUMPの楽曲はどのような内容を歌っているのか。特に頻出し、藤原自身もそのことを認めているのが「宇宙」や「星」のモチーフである。これは決してロマン主義的な「憧れ」の象徴としてではなく(むしろそういった「逃避」の道具に自分たちの楽曲が使われるのを好まないとインタビューではっきり述べたこともある[14])、「星の光が必ず遅れて届くように、あなたと私が『同じ』時を生きているということは果たして本当なのだろうか」といった、時間と存在の不思議について思いを馳せた際に自然と出てくるモチーフである[15]。たとえば披露されれば必ずシンガロングを巻き起こすライブの定番曲「supernova」では、「熱が出て初めて、自分には体があるということに気づく」といったごく日常的な感覚を、その曲名にも表れている宇宙創成の秘密へと、なだらかに接続してみせる。
こうした身近な感覚を壮大なモチーフに結びつける感覚が、BUMPの楽曲を老若男女に届くものにしているのだろう。ロッキング・オン社から独立後も、雑誌『MUSICA』を立ち上げBUMPを取材し続けている鹿野は、とりわけ大きなライブハウスやホールでライブを行うようになってからその傾向が強くなったとし、「家族の団らんを作る音楽をやっているロック・バンド」と彼らの独自性を評している[8]。その評価を聞くと藤原がBUMPの楽曲を「童謡」と位置づけているのも納得だ。この言葉の意味するところについて、彼は次のように語っている。
「要は普遍的なものを作りたいなっていうことだと思うんです。〔…〕たとえば僕は16歳か17歳の時に“ガラスのブルース”って曲を作りましたけど、それって20年以上前なんですよ。あの曲には20年以上前があるわけで、そう考えると20年以上先もあるわけですね。たとえ僕が明日死んだとしてもあるわけですよ。だから『今、俺はこれを歌うべきだ』とか、そういうのは自分にとってはどうでもよくて。でも今この気持ちを曲にして残しておきたいっていう時はあるんです」[16]
音楽社会学者・井手口彰典の研究によれば、童謡とは「「日本人の心のふるさと」的であるという観点に沿ってまとめられ、価値付けられ、そしてその継承が訴えられている」ものだという[17]。しかしBUMPにとっての「心のふるさと」……原風景は和製RPGに見られる無国籍な異世界の風景や、アメリカのルーツ・ロックを通して得られた典型的なイメージとしての「開拓時代」の風景だ。TVODはそれを「貧しい」の一言で両断したわけだが、この抽象性こそが、特定の土地や民族的なアイデンティティに縛られない普遍性を実現していると言えるだろう。
確かに、BUMPはまさしく昭和ノスタルジーを描いた映画『続・ALWAYS 三丁目の夕日』の主題歌も手がけている(「花の名」)。しかしそれは『テイルズ オブ ジ アビス』(「カルマ」)や『FINAL FANTASY 零式』(「ゼロ」)などのファンタジーRPGの主題歌を手がけたのと並列であり、むしろ『三丁目の夕日』的な作品に「も」対応することのできるフラットなソングライティングの表れとして理解すべきだ。藤原はタイアップ楽曲について、次のように語っている。
「タイアップのときに、コラボさせていただく作品がある場合、相手方の作品に寄っていこうとしてはいけない。そうなってしまうと寄り添えない。先方が表現してきているもの、そして我々が表現してきたもの、そこに重なるものがあれば、何も意識せずに真剣に曲を書けば、絶対にそれは同じ方向を向けるものになるので、そういうところで僕は書くようにしています」[18]
BUMPの楽曲は、それを聴くリスナーひとりひとりの経験や、あるいはタイアップする作品と対話し、その核を引き出してみせるという意味でまさにメディア的なのである。
[9] 「えかきのルロアさん」による「『ロキノン系』、読者を指して言う場合は、創刊メンバーの橘川幸夫が1970年代の『ロッキング・オン』で志向した『ロックに仮託した私語りでつながる人たち』の事であって、同誌がメジャー化する上で、渋谷陽一が1981年に橘川への批判も込みで『ロキノン系』という読者層を『捨てた』んだよ。」というもの。『ロッキング・オンの時代』(晶文社、2016年)参照。
[10] レジー『夏フェス革命 ―音楽が変わる、社会が変わる―』(blueprint、2017年)に詳細な分析がある。
[11] 『bounce』229号(2002年2月25日発行)より。当該記事は発行元・タワーレコードのサイトに転載されている。
https://tower.jp/article/interview/2002/05/09/100038068
[12] 『ROCKIN’ ON JAPAN』2014年4月号より。
[13] 「Exciteミュージック」に掲載のインタビューより。
http://ent2.excite.co.jp/music/special/bump2/int3_01.html
[14] たとえば、『ROCKIN’ ON JAPAN』2004年9月号のインタビューなど。以下は藤原の発言。
「大好きなアーティストのCDを辛いことがあった時に逃避の道具として使うリスナーの方って多いと思うんです、結構。僕もそういうお手紙などをよく頂きます。そういうふうに利用してくれていることもありがたいことですけれども、ちょっと残念かなっていう。ロマンチックな世界、非現実的な世界を描くための絵の具として使われるのは、不本意ですね」
[15] アルバム『COSMONAUT』リリース時の『bridge』vol.66 藤原基央単独インタビューでは、聞き手の渋谷陽一の問いかけに応じて、以下のように答えている場面がある。
「たとえば今、僕、ひとりでここにいますけど、他のメンバーは他のメンバーで違う時間を過ごしているわけで。地球の上は今こういう感じですけど、こういう感じの状態で、同じように、火星とか金星とか月とか、もっと遠い星々、あるんでしょうね、今でもね。ずっと輝いてることなんてできねえんだろうなとかね、思うわけですよ。それは人間にもすごく似てるものがあると思うし。やっぱ歌詞を書いていると、どうしてもそういうものが出てきちゃうっていうのは、〔…〕自分が……社会の一員として、地球の一員として(笑)、生活してて、いろいろ感じてきたことを、ミュージシャンとして歌にする時に、俺の場合は、なんかそういうものとリンクする場合が多いのかなと」
[16] 以下の記事を参照。「影を見据えて光をうたう BUMP OF CHICKEN「魔法の料理 ~君から君へ~」」NHKラジオ らじる★らじる
https://www.nhk.or.jp/radio/magazine/detail/utakotoba20190901.html
[17] 『MUSICA』2018年8月号より。
[18] 井手口彰典『童謡の百年』(筑摩選書、2018年)
[19] 「BUMP OF CHICKEN・藤原、タイアップ曲を作るときに意識すること」J-WAVE NEWS
https://news.j-wave.co.jp/2018/10/1018bump-of-chicken.html
「初音ミクを尊敬している」
BUMPの活動における大きな転換点として、2013年にベストアルバムをリリースしたことがよく言われる。「すべてが名曲なのだから、ベストという括りでこれまでの曲を束ねる必要なんてないじゃないか」といった声が少なくなかったのだ。ベストアルバムのアイデアは、メンバー主導で出されたものではなかった。しかし、GOサインを出したのはもちろんメンバーである。その決断に至った理由として藤原は、「やはり、曲の可能性とか力とか個性を、僕たちはより強く信じることができるようになってきたのかなと思います」と述べている[20]。
以降、BUMPは紅白歌合戦への出演(ちなみに、ロッキング・オン社主催のフェス「COUNTDOWN JAPAN」からの中継だった)、「チームラボボール」や「ザイロバンド」といった観客の動きに反応して光を発するツールを用いたアリーナツアーの敢行など、視覚的にも急速に「開かれた」姿勢を打ち出していくことになる。そんな中でもとりわけインパクトがあったのが、楽曲「ray」のMVにおける初音ミクとのコラボレーションだ。プロジェクションマッピングという技術を用いて実現したこの「共演」。特設サイトに掲載されたインタビューでの藤原の言葉からは、このコラボレーションが、BUMPというバンドが何を目指してきたのか、その本質と共振するものとして捉えられたと窺える。
「初音ミクは音符そのもの、音の響きそのものだというイメージがあったんです。ユーザーは自分の思いを旋律と言葉で指定して、それを忠実に再現していくキャラクターだという。思想や善悪も何もなく、純粋に音符として、響きとして存在している」
「僕らは楽曲至上主義で、曲が一番偉いんです。曲が生まれてきたら、その曲が望むような形でアレンジして、再現してあげたい。個々のプレイヤーとしてのエゴよりも、楽曲の声を聞く必要がある。そこに僕たちのすべてがあるんです」[21]
同楽曲のように、シンセサイザーをふんだんに用いた、きらびやかなサウンド感を持った楽曲の比率もこの時期から急速に増えていくが、それも「その曲が望むような形でアレンジして、再現してあげたい」彼らにしてみれば、ごく自然な成り行きだったのだ。同時期のTokyo FM「SCHOOL OF LOCK!」出演時に藤原は、「(初音ミクに)尊敬に近いものを感じていて。そういう風に俺たちも音楽をやっていきたいって思っていた」と語っている[22]。
では「初音ミクのように音楽をやる」とは、具体的にはどのようなパフォーマンスとして実現されるのだろうか。そのことを考えるためには、初音ミク自身のライブを補助線にすると良いだろう。アニメーション研究者の土居伸彰は『21世紀のアニメーションがわかる本』の中で、初音ミクのライブコンサートに参加したときの体験を次のように記している。
初音ミクのライブコンサートでは、透明なスクリーンに初音ミクの3DCG映像が投影され、プログラムに従って、しかし人間による生演奏をバックに、歌い、踊り、MCをする。また、初音ミクをはじめとする様々なボーカロイドのキャラクターも登場し、観客はそれらのキャラクターや楽曲のイメージカラーにあわせて、ペンライトの色を変えていく。キャラクターたちと観客たちが、シンクロを果たしていく。
筆者が強く記憶しているのは、2015年、初音ミクが初めて日本武道館でコンサートを開催し(「初音ミク「マジカルミライ 2015」」)、アンコールにおいて「39(THANKYOU)」という歌が歌われたときの記憶である。初音ミクの背後のスクリーンに、無数の絵師たちによる無数の初音ミクのイラストレーションが映し出されたのである。それが示しているのは、初音ミクを通じて、それぞれのユーザーたちが、自分なりの初音ミク像を作り出しているという図式である。つまり、日本武道館に集まった一万人の観客は、同じものを観ているようで、実はそれぞれ自分自身の異なる初音ミクを観ている。[23]
土居が上記の記述を行っているのは、2010年代以降のアニメーションが、制作環境のデジタル化も手伝い、背景や他のキャラクターからくっきりと分離した主人公が、大文字の〈世界〉に対峙するという「〈私〉のモード」から、すべてのキャラクターが匿名的かつ抽象的に描かれ、鑑賞者はどのキャラクターにも次々と憑依していける「〈私たち〉のモード」へと変化している……という、同書の核となる主張を展開する文脈においてである。初音ミク自体というより、そのパフォーマンスに実在感を見出すオーディエンスの姿に、〈私〉観・〈世界〉観の変化が見て取れるというのである。
2014年のツアー「WILLPOLIS」においてBUMPはホログラムによって投影された初音ミクとステージ上で共演しているが[24]、土居が初音ミクのライブに対して抱いた感慨は、むしろBUMPの通常時のライブにこそ当てはまるものだろう。アリーナやドームで行われたライブの模様を収めた近年の映像作品を観ると、観客から見たバンドメンバーの姿は限りなく小さく、まばゆいステージ照明、観客ひとりひとりがつけたザイロバンドの光、巨大LEDに映し出される映像のスペクタクルの中で、楽曲を奏でる主体としてのメンバーの輪郭はほとんどぼやけてしまっている。オーディエンスは音の発している方角を頼りに、各々がメンバーの姿を想像するしかない。
こうしたバンドの歩みと軌を一にするように、歌詞に人称代名詞が使用される頻度が落ちていくのも興味深い。以下はBUMPの楽曲の歌詞データを、デビュー作の『FLAME VEIN』から2019年の『aurora arc』まで、アルバムごとにかけた形態素解析から作成されたワードクラウドである[25]。

『FLAME VEIN』

『THE LIVING DEAD』

『jupiter』

『ユグドラシル』

『orbital period』

『COSMONAUT』

『RAY』

『Butterflies』

『aurora arc』
「自分」や「僕」といった一人称代名詞の使用が目立つ初期、「あなた」という二人称代名詞の使用が目立つ中期を経て、近作では「世界」や「どこ/ここ」といった、茫漠とした空間を指す言葉の使用が目立つようになっている。これはまさしく土居の指摘したような、〈私〉の輪郭がぼやけ、抽象的な〈私たち〉へと変化していくプロセスとして説明することができるだろう。
[20] 「ROCKIN’ ON JAPAN」2014年4月号より。
[21] BUMP OF CHICKENのオフィシャルサイト内に存在した特設ページに掲載のインタビューより(ウェブアーカイブより復元)。
http://web.archive.org/web/20140315142100/http://bump.mu/ray/miku.php
[22] 番組出演時の書き起こしは以下。
https://www.tfm.co.jp/lock/bump/index.php?catid=50&page=3
[23] 土居伸彰『21世紀のアニメーションがわかる本』(フィルムアート社、2017年)より。
[24] ライブ映像が公式でYouTubeにアップされている。
https://www.youtube.com/watch?v=whdFuBF1EA8
[25] 機械学習エンジニア・@ikedaosushi氏の提供による。分析に使用されたコードは以下。
https://github.com/ikedaosushi/python-sandbox/blob/master/bump-of-chicken/2019-08-11_bump-of-chicken.ipynb
人は天使になれない
ここまで極端なまでの「楽曲至上主義」という、BUMPが持つ特異な価値観を見てきた。その果てに、彼らは巨大な空間と光の奔流の中に、自らの姿を隠したのだった。
ここで改めて冒頭の問いに戻りたい。ステージ上でパフォーマンスをする音楽家は、楽曲をオーディエンスに届ける透明なメディア……天使になることができるのだろうか。
中世哲学を専門に研究する山内志朗は、神の声を人に伝える媒介者としての天使の性質に触れつつ、電子メディア時代において新しい形の「天使主義」が復活してきていると指摘する[26]。山内は中世哲学の発展史を援用しつつ、「天使主義」「グノーシス主義」「聖霊主義」という三つの区分を設けている。
天使主義は、肉体を持たず、純粋に心的な世界に生きる天使同士はいかなる媒介も必要としない完璧な意思疎通ができるとして、言語という媒介物さえも消去しようとした。これが本稿で論じてきたBUMPの理想であり、次第に言語表現が抽象的になっていったプロセスとも重なるだろう。また二つ目のグノーシス主義は、天使ではない=肉体に縛られた人間という現状認識からスタートし、その上で肉体という「悪」を消去しようとした。肉体の次元で何をしようとも、霊的な次元が汚されることはないというロジックで、かえって性的な事件が満ち溢れていたとされる。
そして第三の聖霊主義は、聖霊なる「キリスト教の三位一体を構成するペルソナ」[27]を介して祈ることで、「聖書が読めない人も神様の教えを直接理解することができる」[28]とする思想である。山内によれば聖霊という概念には「一なるものが多なるものに移行する作用」[29]があるといい、それを「声」に似たものとして説明する。「声とは、小声で話すのでない限り多くの人に向けられたもの、多くの人の耳に入るものだ。そして、声の場合、一堂に会した人々が、ほぼ同時に同じ言葉を語ることは難しいことではない。声はたしかに意思を伝えるものだが、聞き手や語り手が多数いる場合、声は心を揃えるメディアともなる」[30]。肉体を持たない、純粋な「声そのもの」である聖霊は、まさにBUMPが憧れたボーカロイドという存在を説明するのに適した概念だろう。
また、聖霊主義の最も重要なモチーフとして山内が挙げるのが「超越的内在」である。これは「最も遠くにあるものが最も内側に存在すること、絶対的超越者が最内奥に内在すること」[31]なのだという。BUMPの楽曲に共通して見られる、身近な日常と宇宙的なスケールを無媒介的に接続する構造は、まさにこのようにパラフレーズできるものだろう。この意味で、BUMPには確かにボーカロイド=聖霊的なあり方に接近するものがあった。
前章で土居の初音ミクに関する記述を補助線に見た通り、BUMPの楽曲は「個」が「普遍」に接続する「〈私〉のモード」的な性質を持ちながら、それがメンバーの肉体を介して共有されるライブ会場においては、「個」の輪郭が溶け合う「〈私たち〉のモード」での鑑賞をオーディエンスに要請する。光に包まれて見えにくくなっているとはいっても、ホログラムの初音ミクとは違い、音声の発信源であるメンバーの肉体はステージ上に存在しているわけで、実際には避けがたく「一なるもの(バンド)から多(オーディエンス)へ」という非対称な関係が生じている。こうしたBUMPの抱える矛盾を、自らが肉体を伴う存在であることへの自覚を欠いてきたと批判することも可能だろう。
結局、人は自身の肉体において責任を引き受ける形でしか表現を行うことができない。人は天使になることはできないのだ。しかし、肉体を天使に至る過程における挫折の象徴として捉えるのも、もはや時宜に適っていない。シルエットのみでドーム公演を成立させるAdoや、VTuberのような存在が人気を集めている現在において必要なのは、肉体から天使までのグラデーションの中に、聖霊という新しいコミュニケーションのモデルを設定することである。
この意味において重要な存在が、やはり米津玄師ということになるのだろう。米津はBUMPからの強い影響を受けつつ[32]、2010年代前半にボカロP「ハチ」として人気を博した。しかしより開かれたポップソングの担い手となるべく、自身の声と肉体をさらした現名義での活動に移行したのである。表面的には初音ミク的なものからの「卒業」とも取れるが、彼固有の自身の肉体に対するコンプレックスを乗り越えるという意味合いも含まれており、事はそう単純ではない。
すごく気持ち悪い身体で生まれてきたなって感じがあるんですよね。だから、自分が着る服って、わりとボディラインが隠れるものが多くて。それもあんまり意識してなかったんですけど、ある時、細長い手足とか、そういうものを包み隠してくれるようなものを好んで着てることに気付いた。昔から背が高かったので、身長が伸びるスピードが速くて、丈が足りない問題っていうのがあって。だから、ピッタリしたものが着たくなかったんです。貧相に見えてしまうし。自分にちゃんとフィットしたものを買ってもらえない貧困があると考えていて。だから、なるだけデカいものを着て、それによって自分の姿も隠すっていう生き方でずっとやってきました。最近になってようやく、「それでいい」って思えるようにはなってきましたね。[33]
SNSのプロフィールには一貫して米津玄師とボカロPとしての名義「ハチ」を併記し続けているし、初音ミク発売10周年となる2017年には、自身が去ったあとのボカロシーンに対する檄文とも取れる一曲「砂の惑星」を書き下ろしてもいる。そして新型コロナウイルス感染症の拡大によってリアルな会場を使ってのライブができなくなった最中には、オンラインゲーム「フォートナイト」上でバーチャルライブを開催、当時の最新アルバム『STRAY SHEEP』収録曲中心のセットリストの中で唯一、前作の収録曲である「砂の惑星」を披露したのである。それは自身の「バーチャルなもの」との関係を改めて顧みる機会だったと、米津は2021年のインタビューで語っている。
「自分は昔からオンラインゲームが好きでした。オンラインでのコミュニケーションをしていて感じたのは、現実でのコミュニケーションとは別物であるということです。相手の顔も性別すらもわからない仮想の肉体同士で接し合う。それによって救われる部分が大きくあります〔…〕情報が制限されるからこそ豊かであるという記憶があって、今回のバーチャルライブでも共通するものがあると思いました」[34]
ここで山内の著書から引きたい一節がある。
コミュニケーションとは、無媒介的/媒介的といった二元論的対立で整理できるものではなく、多層的で、それぞれの層が別の機能を有する錯綜的な交通なのである。そういった錯綜体としての側面が肉体には具わっているのである。肉体とは、心の外にある覆いなのではなく、人間が錯綜した仕方で世界と関わるための媒体・メディアなのである。聖霊がメディアの典型とされてきたが、肉体も聖霊もそれぞれ異なった機能を持つメディアなのである。[35]
MVでダンスを披露することもあれば、コスプレのような衣装に身を包むこともあり、さらにアートワークも自ら手がける米津玄師が示しているのは、肉体をベースにしながらも、肉体/バーチャルといった二元論的対立を乗り越えようとする……まさしく多層的なリアリティの中で、オーディエンスとの音楽を通じたコミュニケーションを模索する態度である。米津にとっては肉体と聖霊(=ボーカロイド)は対立するものではなく、自らの音楽を世界に媒介させる並列なメディアなのである。
翻って、BUMPはどうだろうか。ボーカロイドを中心とした現代の音楽カルチャーにおいては、SNSで直接的につながった音楽家・イラストレーター・動画クリエイターが、多種多様な作品を日夜動画プラットフォームにアップし続けている。それはボーカロイド=聖霊というメディアによって実現した新しい音楽のあり方である一方で、TikTokなどのショート動画SNSにおいては肉体がメディアとして機能し、ダンスを通じて音楽がバイラルしている。BUMPは現状、そのどちらのトレンドにも適合しているとは言いがたい。肉体を持つ以上ボーカロイドのようにはなりきれず、かといって――これは彼らだけでなくバンド全般に言えることだが――ラッパーやソロシンガーのように縦横無尽に楽器を置いて動き回ることも難しいからだ。巨大な空間と光の演出によってその姿を隠すステージングは、商業主義の中で否応なしに大きくなった公演の規模と彼らの理想を接続するための、苦肉の策だったという印象がどうしても拭えない。
しかし本稿で見てきた通り、BUMPは本来、彼らの作ってきた作品そのものが、リスナーの「自分語り」を誘発するメディアなのである。ここで思い出されるのが、コアなBUMPファン以外にはすっかり忘れ去られている、『人形劇ギルド』という映像作品である。2004年発売のアルバム『ユグドラシル』に収録されていた楽曲「ギルド」の物語を、ストップモーション・アニメーションの形で語り直したもので、アルバムの発売から2年後の2006年、DVDで発売された。また、2008年のアルバム『orbital period』のCDには88ページにも及ぶ藤原直筆の絵本が封入されてもいた。さらに言えば、米津玄師がBUMPを知ったきっかけも、初期の楽曲に第三者がアニメーションをつけた非公式のFlash動画だったのである。
BUMPにおいては、藤原基央というストーリーテラーが紡ぐ物語そのものがメディア的な性質を持つ。だからこそ、絵本やアニメーションといった様々な表現に展開しうるのだ。身近な日常と宇宙的なスケールを接続すること。具体的なキャラクターの姿を通じて普遍的なテーマを描くこと。初期の楽曲にとりわけ顕著な、そうした物語性を称揚することが、単なるノスタルジーではないと私は信じたい。「閉じた」シェルター的な感性こそが、「つながり」が過剰に求められる現代においては、むしろオルタナティブになると思うのだ。
[26] 山内志朗『新版 天使の記号学 小さな中世哲学入門』(岩波現代文庫、2019年)
[27] 『未来哲学』(未来哲学研究所、2020年)に収録の山内論文「通底する存在と情念――中世から未来を問うために」より。
[28] 『現代思想2021年1月号 特集=現代思想の総展望2021』(青土社、2020年)に収録の藤原辰史との対談「人間は生きた土である――分解と混合の哲学」より。
[29] 山内『新版 天使の記号学――小さな中世哲学入門』より。
[30] 山内、前掲書より。
[31] 山内、前掲書より。
[32] たとえば、以下のインタビューを参照。「BUMP OF CHICKEN がいて、RADWIMPSがいて、自分がいること。」cakes(ウェブアーカイブより復元)。
https://web.archive.org/web/20151228053051/https://cakes.mu/posts/11821
[33] 「「Lemon」がミリオンDL突破米津玄師がオルタナティブを語る」HIGHSNOBIETY.JP
https://highsnobiety.jp/p/hsjp-mag-issue-01-kenshi-yonezu-interview/
[34]「米津玄師さんが超える分断「こぼれ落ちるものをすくう」」朝日新聞デジタル
https://www.asahi.com/articles/ASNDX63PZNDJUPQJ00C.html
[35] 山内、前掲書より。